ルワンダ内戦
ブルンジ内戦
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アフリカ中央部に位置するルワンダとブルンジは多数民族のフツ族と少数民族のツチ族が民族紛争で対立。1994年にはルワンダで大虐殺が発生し3ヶ月間で100万人のツチ族が虐殺された。また1993年から98年の内戦で20万人が死亡し難民の数はルワンダで250万人、ブルンジで50万人に達している。
ルワンダとブルンジは1962年にベルギー領から独立。両部族は本来17世紀ルワンダ王政下で支配、被支配関係にあった。一般的に牧畜民のツチ族(少数派民族)が農耕民族のフツ族(多数派民族)を支配してきたとされており、少数民族の多数民族に対する支配体制が長年続いていた。住民は長年所属する部族を記述した証明書を持ちその結果差別や弾圧を受けていた。
これら民族紛争の原因は植民地時代の負の遺産を放置した西側社会に責任が大きく、対応が急がれたが国際社会の対応が遅れ被害が拡大化し大量虐殺に発展した。国連のアナン事務総長も両国の件に対する対応の不備を釈明、またアメリカのクリントン大統領も対応の遅れを指摘した。一連の内戦は周辺国へも波及しコンゴ、ウガンダなども不安定な状況に追い込んでいる。
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ルワンダ内戦
ルワンダはブルンジと同じく1962年7月ベルギー領から独立。フツ族90%、ツチ族10%と圧倒的にフツ族が多いもののその支配はツチ族中心に行われてきた。1973年7月に多数派フツ族によるクーデターで軍事独裁政権が誕生するとツチ族に対する弾圧や虐殺がはじまり内戦が激化。1990年には少数派のツチ族が組織するルワンダ愛国戦線(RPF)が攻勢に出る。1994年にはルワンダのハビャリマナ大統領、ヌタリャミラ大統領の両名が乗る飛行機が墜落し死亡したことを切っ掛けに内戦と虐殺が激化する。
1994年夏にはいわゆる「ルワンダ大虐殺」が発生しフツ族武装民兵やフツ族市民により3ヶ月間で100万人のツチ族が殺害された。同年7月にはRPFがルワンダ全土を制圧しツチ族のビジムング大統領が新政権を樹立。一連の内戦と虐殺によりフツ族は周辺国に難民として250万人以上が流出した。
この中には報復を恐れ国境地帯に潜伏したフツ族武装集団もおり彼らは度々国境を越えツチ族の集落に攻撃を加えゲリラ活動を続けた。
現在虐殺に関する容疑者は国内裁判及び戦犯法廷にかけられているが、容疑者だけでも10万人を超える事からその処理が長引いている。また現在でも公開処刑や散発的な虐殺は続いておりさらにこの民族対立は隣国のウガンダ、ザイールなどにも波及した。
ツチ族の新政府はフツ族難民に帰還を呼びかけているが報復を恐れる難民の帰還は進んでいない。1995年11月に周辺4ヵ国が難民帰還を目的とした合意文書に調印する100万人以上の難民が帰還を果たし収束に向かい僅かな希望を見せている。 |
ブルンジ内戦
ブルンジは人口723万人。首都ギガリを中心に鉱物資源やコーヒーを産業に発展してきた。1962年にルワンダと共に独立。以降ルワンダ同様の民族問題を抱えるが1993年6月の民主化選挙でフツ族(多数派)主体の政権が誕生した。大統領にはブルンジ民主戦線(フツ)の指導者ヌダダイエ氏が就任したが10月にツチ族将校を中心とした軍事クーデターが発生し大統領は暗殺。その後クーデターは鎮圧されたものの各地で内戦が激化。1994年4月にはルワンダ大統領と同乗した飛行機が墜落し両大統領が死亡するとルワンダ同様各地で内戦が激化した。その後もフツ族の政権が続くが1996年ツチ族が起こした無血クーデターによりブヨヤ大統領が就任。少数派政権の誕生に周辺諸国は非難を浴びせ経済制裁も行われたが1999年1月にはアフリカ統一機構が制裁解除を採択した。この間内戦による犠牲者は20万人を超えた。97年以降ブルンジではタンザニア政府の仲介で和平会議を進め2000年9月には南アフリカのマンデラ前大統領によってアルーシャ和平合意の和平協定調印を行い各派が調停に参加した。しかしコンゴに拠点を置く民主防衛国民会議(CNDD)やタンザニアを中心に活動するフツ族開放党(PALIPEHUTU)が調停を拒否しゲリラ戦を展開している。
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ルワンダ |
ブルンジ |
| 首都 |
キガリ |
ブジュンブラ |
| 人口 |
723万人 |
610万人 |
| 言語 |
フランス語 |
フランス語 |
| 宗教 |
カトリック、伝統宗教 |
カトリック |
| 資源 |
コーヒー、紅茶、スズ、タングステン |
コーヒー、紅茶、綿花 |
| 人口比率 フツ:ツチ |
10:1 |
8.5:1.5 |
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