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■サーチアンドクリアー/デストロイ
ベトナム戦争における代表的な歩兵戦術がサーチアンドクリアーと呼ばれる索敵殲滅作戦である。ジャングルでは航空機や戦車による偵察が困難であ歩兵を偵察の主体にする必要があった。また、その歩兵も密林の中では強力な重火器が使えず、自らのライフルだけを頼りにした文字通りの白兵戦を展開した。この戦術によりアメリカ軍は多くの犠牲を出し、より効果的な特殊偵察部隊の投入をはじめ多くの戦術と装備の変化をもたらした。この作戦には通常小隊〜中隊規模の兵力が投入され、指定された警備地域を巡回する。当然砲兵、航空部隊との連携もあるが、多くの場合は歩兵同士の銃撃戦が展開される。小規模の部隊は敵に発見されにくい代わりに待ちせに会った場合全滅の危険性もはらんでおり、部隊の先頭を歩く兵士には恐怖がつきまとった。またベテラン隊員が斥候に選ばれるがこうした隊員はM79グレネードランチャーやショットガンなど出会い頭の戦闘に有利な制圧火器を使用した。歩兵の近代化が進んでいたこの時代にあってアメリカ軍はかつて経験したことのないゲリラ戦術を受け多くの犠牲と士気の低下を招いた。また戦略村防衛にも基地周辺をサーチアンドクリアーしなければならず米国の政策に反対する解放戦線兵士は地の利を活かしパトロールルートにブービーとラップを仕掛けたり狙撃兵を配置したりした。陸軍、海兵隊など主要歩兵部隊はジャングルでのサーチアンドクリアーに終始するが戦果はまちまちで成果が大きければ損害も大きいと言った形であった。ベトナム戦争中に行われた地上作戦はそれぞれ規模こそ違えど、この戦術を基本としている。
■サーチアンドレスキュー
米空軍の最初の航空機損失は1962年の枯れ葉剤散布作戦の輸送機であった。また64年6月にはラオスのホーチミンルート偵察中の航空機が2機撃墜されている。遠隔地、国境を越える米軍パイロットは撃墜時の危険を承知しており、同時にその不安感から士気も低下した。アメリカ軍上層部はこれらの自体に対する専門の救助チームの編成を決定。以降米軍ではパイロットの救出に全力を傾けることになる。この背景にはいつの時代もパイロットの教育には時間と経費がかかる点もあげられる。その損害は戦闘機の損失よりも遙かに大きいとされ、パイロットの信頼と人材の確保という二面性からもこの作戦は重視された。1964年6月には第33ARS(航空救難サービス)が小型ヘリHH-43Bで救難ミッションを実施。実際の救難活動はCIAの保持するダミー会社エアアメリカちコンチネンタルエアサービス所属のパイロットが秘密裏に行った。北爆が本格化する66年1月航空救難サービスは航空宇宙救難サービス(ARRS)と改名されHH-3Eシコルスキー、ジョリーグリーンジャイアントなど導入しSAR(サーチアンドレスキュー)任務を本格的に開始した。複数の航空機からなるサーチアンドレスキューチームはタスクフォースSARと呼ばれHC-130空中給油機、救難ヘリHH-33・2機、A1スカイレーダー護衛機4機で構成。さらに空軍基地には予備兵力のスカイレーダーが最低2機待機した。通常SAR部隊は航空作戦に先駆け北ベトナムのトンキン湾上空で飛行待機し撃墜の連絡が入ると北ベトナム領内に侵入、作戦を開始する。もっとも危険な着陸、改修任務を行うHH-3Eは装甲、生存性などの能力不足を指摘され1967年6月にシコルスキーHH-53Bスーパージョリーグリーンジャイアントに交替する。HH-53は2門のミニガンを装備し重装甲を持つ巨大ヘリコプターで最大50人の兵士も運搬できることから戦闘救難ミッションには最適とされベトナム戦争以降も使用され続けている。またHH-53の中には2-3名の空軍特殊部隊員パラジャンパーが搭乗している。彼らは戦闘状態の墜落現場に降下しパイロットを救助するために武装しており必要とあればその場でパイロットの治療なども行える。その外科能力は非常に高度でこの他にも空挺、レンジャー、サバイバル、スキューバ訓練を受けている。アメリカ軍では現在でもPJ隊員を組織しており、多くの戦場に投入されている。
■イアンドラン渓谷の戦い
1965年11月、当時アメリカが世界最強と誇った第1騎兵師団と北ベトナム正規軍が激突。ベトナム戦争初の正規軍同士の戦闘となった。イアンドラン渓谷は地図にも載らないような場所ではあったが地形的な利点もあり北ベトナム共産軍の巣窟と化していた。この戦闘でアメリカ軍は週間平均戦死者240名を記録し朝鮮戦争を上回った。
■鉄の三角地帯
鉄の三角地帯とはサイゴン西部のカンボジア国境に存在した解放戦線の要塞地帯で、C戦争区と呼ばれるエリアに東西10km四方のエリアに総延長200kmにも及ぶ地下トンネルを建設しそこからジャングルへ出て南ベトナムに対するゲリラ戦を展開していた。この解放戦線最大の要塞は各村とジャングルの中に無数の入り口を持っており解放軍は自由にトンネル内を移動していた。ジャングルに現れ米兵を狙撃してはトンネルに消えるベトコンの存在は驚異で何度と無く掃討作戦が行われた。中でも最大規模で行われたのがジャンクションシティ作戦で173空挺旅団を始めオーストラリア陸軍などが参加している。173空挺旅団はこの作戦でベトナム戦争唯一の空挺降下を行ったが作戦自体は成果を得ることができなかった。ベトコンの構築したこのトンネルには高度な外科治療のできる医療施設や弾薬貯蔵庫、食堂に兵士の寝る寝台スペースまで作られており入り口には特殊なトラップやダミーも多かった。そのためアメリカ軍ではトンネルを発見次第トンネルラッツと呼ばれる専門部隊を派遣したが巧みな罠をかわし内部を探るのは想像を絶する危険と恐怖との戦いであった。この他にもトンネルには毒ガスよけの水密漕などもあり戦争終結までの10年間解放軍はここに留まった。
■ケサン包囲網
1968年テト攻勢の気配漂う中ケサンの海兵隊基地ではその予兆を見ていた。アメリカ海兵隊第26連隊第3連隊の歩哨が6名の共産軍と遭遇うち5名を射殺した。ケサンはDMZに隣接する高地地帯の海兵隊基地でこれといった重要施設は存在しなかったが、海兵隊はここに大規模な基地を建設した。ラオスに通じる国道9号線上、ケサン市から約4kmの地点に存在するケサン基地は標高450m、周囲にはそれよりも遙かに高い500-1000mの山がこれを囲んでいた。ケサン基地は全長2000mの滑走路を有するDMZ防衛の要であったが同時に北ベトナム軍にとっては大きな障害であった。ケサンにはアメリカ海兵隊第26海兵連隊の第1、第2、第3大隊、第9海兵連隊の第1大隊、南ベトナム第37レンジャー大隊が駐留しさらに北西方向の高地(881S、861、861A、558、950)5ヶ所に前哨基地を置いた。それぞれの前哨基地には海兵隊一個中隊が派遣され守備していた。67年12月より北ベトナム軍南下の兆候が現れだし、ウエストモーランド司令官はナイアガラ作戦を実行、偵察段階の調査でケサン北西部からの北ベトナム軍侵攻が確認された。発見された北ベトナム師団はハノイの守備にあたっていた精鋭部隊304師団、DMZより南下した325C師団でさらにケサンの北には324師団の1個大隊、325C師団の後方には予備兵力の324師団が待機していた。これらの部隊は122mm、130mm、152mmの各榴弾砲をそれぞれ20-30門保持しており、特に海兵隊基地の3重装甲のバンカーをも破壊できる152mm砲弾は驚異的であった。しかしこれらの部隊の具体的動きは不明で南進時期は不明であった。これに対してケサン防衛部隊はトリプルラインの鉄条網、クレイモア対人地雷、フレアーなどを設置し、さらにケサン基地東側27kmの地点キャンプキャロルには175mm自走砲、155mm、105mm榴弾砲の各砲兵部隊を展開させてこれを待ち受けた。1月21日北ベトナム軍は861高地に向けて迫撃砲、ロケット弾による攻撃を開始。その30分後には300名の北ベトナム軍兵士が海兵隊陣地に攻撃を仕掛けた。さらに数千発の砲弾がケサン基地を襲い燃料施設、弾薬貯蔵庫などが直撃を受け、ケサンの生命線である滑走路もその半分が使用不能になった。ケサンはその補給を空輸に依存しておりこれは深刻な問題となった。21日軍部はケサン基地が完全に包囲されたと発表。ケサン市も共産側に落ち市民は避難を開始した。北ベトナムはケサンを第2のディエン・ビエン・フーとすべく組織的な大攻撃を連日展開。その砲撃は最大で一日1307発に達した。これに対しワシントン政府はケサンの徹底死守を決定。ウエストモーランド司令に全権が与えられた。ワシントンのホイラー将軍はケサンにおける核兵器使用の必要性をウエストモーランド司令に尋ねるが、この時点での核の使用は否定された。ケサンを支援すべく行われたナイアガラII作戦ではケサン周辺に展開した北ベトナム部隊壊滅を狙いすべての航空部隊が部隊の垣根を越えて投入された。B52爆撃機の425波に及ぶ空爆、夜間には常にガンシップが基地上空を飛行し北ベトナムの突撃に備えた。ケサン上空にはあらゆる高度に航空機が滞空し共産軍に斉射を浴びせた。最大時にはケサン上空に800機が滞空しこれを援護した。爆撃面ではラオスのホーチミンルートに至るまで爆撃を行ったが北ベトナム軍は周辺地形の赤土を利用した大規模な塹壕を製作し徐々に基地へと迫っていった。そして一晩に100mを掘り進むその力で海兵隊陣地300mの距離までそれを進めていた。この頃基地から突出した滑走路は北側の手に落ちていたがアメリカ軍の物資の備蓄は1月19日の時点で30日分しかなかった。1月20日兵站担当者はこの備蓄量の維持に185tの空輸が必要でそれにはC130による輸送が1日に15回必要だと進言した。35日間の備蓄延長には75回の補給が必要となった。しかし滑走路への着陸は難航を極めた。穴だらけの滑走路に加え着陸側は共産軍に占拠されていたため着陸時には銃撃を受けた。2月5日に着陸したC130は迫撃砲によりエンジンを大破、さらにタイヤをバーストさせ運搬した弾薬にも引火した。しかしこの作戦中輸送部隊のパイロットは勇敢かつ冷静に仕事を進めこのC130も2日後には3発のエンジンと修理したタイヤで離陸した。2月12日以降は空中投下輸送に切り替えられる。一方北ベトナム軍は2月6日にランベイのアメリカ陸軍特殊部隊キャンプを攻撃しこれを陥落させた。この戦闘でアメリカ人特殊部隊員10名が戦死した。ケサン陣地内の海兵隊は連日砲火にさらされその生活は悲惨さを極めた。消費した弾薬、食料の空が散乱し不衛生な状態が続いた。加えて24時間狭い塹壕内での生活はスラムでの生活を彷彿とさせた。3月24日頃には砲撃が緩んだがこの時北ベトナム軍はDMZへの撤退を開始していた。4月1日には包囲網を攻撃すべくペガサス作戦が実行され大規模なヘリボーンを投入したがすでに主力部隊は撤退していたため戦闘は少なかった。北ベトナム軍の支配エリアには数百体の戦死体が散乱しており空爆の成果を表していた。同作戦では1500名の戦死者を出したアメリカ軍であったが、一方で共産軍の死者は9000-13000と想定されている。
■フエの市街戦
1968年1月31日未明共産軍によるフエ攻撃は同時に行われた41都市に対する一斉攻勢の中でも最も成功した戦闘となった。実に25日間もの間王城を占拠し続けたのだ。フエは旧王都ででありベトナムの歴史の面でも重要な都市である。当時は女学校などもある学園都市としても有名であり貴重な文化財が数多く存在した。日本の京都にあたるこの町は旧市街と新市街で構成され2つの市街はフォン河を中心に橋で結ばれていた。フエには南ベトナム軍事司令部MACVが存在し、南ベトナム陸軍第1師団も存在していたが実質的には非武装都市であった。共産軍はクアンチ、トゥアティエン省をサイゴン侵攻までの重要拠点と認識しておりその中心都市であるフエには高い関心を示していた。文化都市フエは北ベトナムが南ベトナムの拠点として考えていた。フエの高校の卒業者名簿にはホー・チ・ミン、北ベトナム司令官ボー・グェン・ザップ将軍などの名前もあった。当時軍事顧問団はフエに向けて移動する大規模部隊の存在を確認していたが情報分析官はそれを予想できずその侵入を容易にさせてしまった。1月31日濃い霧の立ちこめる中、共産軍第6連隊の兵士2200名はロケット砲の支援を受けながらフエ王宮西側の堀を渡り旧市街に突入。南ベトナム陸軍第1師団司令部を目指した。しかし市街中央には飛行場がありそこを守るのはARVN部隊の精鋭黒豹中隊であった。前日のダナン攻撃の報を受け待ちかまえていた同中隊は共産軍と戦闘を開始、共産軍はフエ王宮に撤退した。王宮にはためく解放戦線の旗は政治的にも十分なアピールになった。アメリカ軍の対応は後手に回ったが2月1日には海兵隊第1大隊を派遣、M48戦車を伴いフエ市街に侵入を試みたが共産軍K4C大隊との交戦で多くの被害を出した。海兵隊の本隊が到着すると本格的な掃討作戦に入ったが、市街を破壊する恐れのある重火器の使用が制限されており、大規模な市街戦は苛酷を極めた。この後フエの戦闘には第101空挺師団の2個大隊も投入された。フエ市街に展開した海兵隊は3個大隊、陸軍6個大隊、南ベトナム軍11個大隊。これにガンシップや各砲兵部隊が随伴した。また海上からは巡洋艦が砲撃支援を行っている。このような大規模な戦力を投入しながらも制圧に手間取った背景には一般市民の存在がある。一部では人質に使われる状況もあった。また重要文化財へ立てこもった共産軍への攻撃もためらわれた。しかし2月12日になるとグエン・バン・チュー大統領からの許可がおりフエでの重火器の制限は取り除かれた。しかしそれでも王宮への重火器攻撃は制限された。この結果スカイレーダーをはじめとする対地支援機が爆撃を開始。フエは本格的な戦火に呑まれた。フエ南部の海兵隊第1大隊は多くの損害を出していた。50人の戦死者と40人の負傷者を出し結果10ヤードの前進に1人の戦死者を出している計算になった。事態の変化が起きたのは2月16日王城を占拠していた共産軍司令官が戦死し撤退を求める通信を米軍が傍受した時であった。24日の夜明け前南ベトナム軍第1師団の第2連隊第2大隊が王宮に突入。戦闘の末24日間翻った解放戦線の旗を降ろすことに成功した。フエをめぐる一連の戦闘では南ベトナム政府の職員や消防士、警察官、教師など多くの政府関係者とその家族が虐殺された。共産軍はあらかじめ作成されたリストに従い目標の家を制圧。家族全員を銃殺した。この戦闘による民間人の犠牲者は1200人以上であった。一方解放戦線はこの戦闘で8000名の戦死者を出した。アメリカ海兵隊の戦死者は142名、陸軍は74名であった。
■テト攻勢
1968年1月30日ベトナムの旧正月にあたるテトの月に共産軍の大攻勢が行われた。解放戦線はベトナム全土の41ヶ所の都市で一斉攻撃を開始した。テトで祝う都市の人混みに紛れてサイゴン市内に侵入した共産軍決死隊は2500名にのぼり政府の重要施設を襲った。中でも米国大使館が一時的に占拠された事は世界的な衝撃となった。更に政府要人の多くを暗殺しそのターゲットは教師や警察官、その家族にまで及んだ。古都フエでは海兵隊を相手に解放戦線が実に22日間に渡り戦闘を繰り広げ最大の市街戦となった。この大攻勢は2月までに大半が制圧され解放戦線は軍事的に壊滅的な打撃を受けた。しかし政治的には大使館の占拠や捕虜となったベトコンが地元の警察署長にテレビ中継で射殺されるなど多くの衝撃を世界に伝えこの戦争の意義を西側に問いかけるに至った。結果アメリカ国内では反戦運動がピークになりアメリカ軍は北爆を停止、パリ和平会議に出席することになった。またこの大攻勢により南ベトナム政府は各省都の防衛に専念し農村部の防衛を怠った。結果的に共産主義を農村部に広めてしまった。以降戦闘の主役は北ベトナム正規軍NVAに移行しアメリカ軍の撤退が始まっていく。
■ダクト攻防戦
イアンドラン渓谷を上回る正規軍同士の戦闘。857高地をめぐる死闘が特に有名だが最終的には米軍がダクトを死守した。
■ホーチミンルートでの攻防
アメリカ軍がベトナム戦争で苦戦した理由は数多く存在するがその一つがホーチミンルートでの攻防である。ホー・チ・ミンルートとは北ベトナムから南ベトナムに物資を送る為の補給ラインで隣国のラオス、カンボジアなどにも達していた。これらのルートはジャングルで巧みに隠蔽され空からの発見は困難を極めた。中国、ソ連の支援の元トラックで輸送される武器、弾薬は南ベトナムに浸透していった。物資の中には対空砲や重機関銃、重迫撃砲などもありアメリカ軍はこのホーチミンルート壊滅を一つの目標に掲げていた。しかしカンボジア、ラオスにまで伸びるルートの壊滅には特殊部隊の秘密作戦しかなく政治的には大きなリスクを背負った。ホーチミンルート上でSFGなどの特殊部隊が輸送部隊を待ち伏せし小規模であれば急襲しこれを爆破、また大規模な部隊を発見した場合には航空支援を要請し対応を図った。一方共産軍はトラックや自転車などを駆使し輸送路を構築。ハノイハイウェイとも呼ばれた高速移動が可能な道路も確保しており広大なエリアで特殊部隊との攻防を展開した。共産軍は終戦までのこのルートを守りきりサイゴンを早期陥落させた。
■メコンデルタのゲリラ戦
メコンデルタ地帯は複数の河川から成るインドシナ最大の河川地帯の一つでカンボジア、ラオスを股にかける巨大な河の加工部分にあたる。この地帯は稲作が盛んで、上流から流れ出る肥沃な土が河口に流れ出て湿地帯を形成しており稲作には絶好の環境となっている。豊かな農村部が広がる第4軍管区では収穫期になるとベトコンが米を強奪しに現れるため共産軍、南ベトナム政府にとって重要な地域であった。また、農村部に共産主義を浸透させるための活動も盛んであった。大小数百の河川からなるメコンデルタにおいては機甲部隊の運用は困難で第9歩兵師団によるヘリボーンがその主力を務めたが、この他にもアメリカ海軍の河川強襲艇で組織された河川強襲軍ブラウンウォーターネービーなどがジャングル戦の主役を務めた。河川強襲軍は強力な武装を施した強襲艇に兵員を載せ河川を往来する農民の船に紛れたベトコンを探し出したり、ヘリボーンと連携してのサーチアンドデストロイを行った。さらにこのエリアではアメリカ海軍の特殊部隊SEALがその活動を行っており共産主義の布教活動を行うベトコンの暗殺、誘拐、攻撃、情報収集などの特殊作戦を行った。これら強力な部隊の活躍で第4管区での共産主義の活動は他の地域よりも遙かに小さく押さえられた。
■戦後の捕虜救出
ベトナム戦争終結後に国内の従軍兵士遺族行方不明者の会など米国国民が最も関心を寄せたのが捕虜として北側に捕らえられた人間達のその後である。多くの捕虜は戦後帰国しており新たに捕らえている捕虜についてハノイ政府は一貫して否定し続けている。しかし遺族や行方不明者など遺体無き戦死者の家族にとってはその希望に縋っていたいという事もあった。米国政府は戦後もCIA、軍部主導の捜索活動も行われたが成果が出なかった。一説にはソ連のKGBが機密確保のために現在も拉致しているともベトナムのどこかに監禁されているとも言われたが証拠はなかった。しかし80年代に入りある民間組織によって偶然にも捕虜らしきアメリカ人を捕らえている収容所を発見。同組織は彼らの救出をすべくベトナム戦争で活躍した特殊部隊の英雄、ブラドック大佐が捕虜救出に向かった。米国政府はベトナムとの国交回復を考えておりこの時期の捕虜問題は外交に悪影響を及ぼすため黙殺しようと務めた。多くの障害を乗り越え米国政府すら敵に回したブラドック大佐であったがついに捕虜の救出に成功し地獄からの生還を果たした。政府の記者会見場に捕虜と共に現れたブラドック大佐は世界中に両国の不正を暴露した。この他にもCIA主導で行われた捕虜救出作戦など多数の秘密作戦も展開されている。
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