■ベトナム戦争の概略
■インドシナ半島の歴史とその植民地化
ベトナムという国は、近世以前から中国などに20回以上も侵略を受け、その度にいくつもの王朝が滅んできた。やがて19世紀に入り列強帝国主義がアジアにも目を向け、1884年には、フランスが現在のヴェトナム、ラオス、カンボジアを次々と植民地化をして「インドシナ」と名付けた。多くの植民地がそうであったように、フランスは、インドシナに自国文化の強制をし、農民から農地を奪い、フランス人がそれを管理運営する、ヨーロッパの農園方式を確立させた。農園ではゴムなどが栽培されたが、農民の扱いは過酷を極め、安い労働力による生産は多くのフランス人に莫大な富をもたらした。やがて、キリスト教が広まり、フランス語が公用語になると、ヴェトナム人の下級官吏やヴェトナム商人が富を蓄え、有産階級になると、彼らは、無産階級の同胞に対し、フランス人と同じように振る舞った。その有産階級の子弟は、フランスに留学するようになるが、当時のヨーロッパは共産主義が台頭し、後に北ヴェトナム最高指導者となる、ホーチミンもヨーロッパで共産主義の洗礼を受けることになる。 やがてヨーロッパでは第一次世界大戦(1914〜1918)が始まりフランス植民地軍 として多くのヴェトナム人が戦争にかり出された。その後、近代化の波を受けヴェトナムでも有産階級を中心に、一気に独立の気運が高まっていく。 1939年再び世界大戦が勃発し、ドイツ軍の侵攻によりフランス本土は降伏した。これを契機に極東では、日本軍が南方資源確保のために南進し、インドシナ北部を制圧し、1941年7月にはインドシナ全土を手中に収めた。これに対抗して、ヴェトナム独立同盟(ヴェトミン)が結成され以降独立運動の中核を成していくことになる。
■インドシナ戦争勃発

1945年8月、ポツダム宣言を受諾した日本の降伏で第二次世界大戦は終了した。同年9月にホー・チ・ミンはヴェトナム民主共和国の独立を宣言。同時に大統領に就任した。しかしフランスは、これをよしとせず、ヴェトナムの再植民地化をはかるための作戦に乗り出した。1946年、ヴェトナム南部にコーシチナ共和国を樹立。両者間の溝は深まり、全面対決に発展する。これが今後7年間続くインドシナ戦争である。第2次世界大戦後西側諸国は、共産主義の台頭を恐れ、その対抗策を模索していた。マレー動乱、タイ、ラオスの共産ゲリラの出没、そして1950年には朝鮮戦争が勃発し、アメリカを初めとする西側諸国の反共意識は頂点に達し、アメリカもまた、フランスに対する軍事供与を始めた。1954年フランス軍の要塞ディエンビエンフーが陥落するとジュネーブでの停戦協定が始まり、北緯17度線で南北ヴェトナムを分断することになる。これにより、北ヴェトナム(ヴェトナム民主共和国:首都ハノイ)と南ヴェトナム共和国(首都:サイゴン)という2つのヴェトナム国家が誕生することになる。この協定では、他国の軍隊を国内に入れてはならないという取り決めがあったが 、広く知られるように、アメリカは数十万の軍隊を派遣することになる。また北ヴェトナムも密かに中国と、ソビエトから物資や軍事顧問の支援を受けることになる。

■ヴェトナム戦争勃発とアメリカの介入

第二次世界大戦の終わりは、民主主義対共産主義の戦いの始まりであった。当時中国、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)など相次ぐ共産化に危機感を抱いたアメリカは、CIAを通じ、ゴ・ジン・ジェムを擁立し、南ヴェトナム政権を支援した。しかし、ジェムは、一族による独裁を敢行し、民衆を苦しめたために、すぐに大衆の反感を買い、クーデターやデモが続発する。こうした中1960年には、南ヴェトナム解放戦線(NLF)が誕生し北ヴェトナムの支援を受けゲリラ活動を展開する。1963年には、仏教徒の大弾圧に対し、僧侶が抗議の焼身自殺を図ると、それを見たジェムの弟、ゴ・ジン・ニューの夫人が「坊主のバーベキュー」と発言。国内外から激しい避難を浴びる。やがてアメリカにも見放されたジェムは11月のクーデターで弟と共に射殺され政権は崩壊した。これはCIAの手引きによるものとも言われている。一方米軍は、ヴェトナムに派遣していた軍事顧問団を軍事顧問軍に改名。戦略村の構築など表だった活動を開始した。南のクーデターが発覚した同じ頃アメリカでは20世紀を代表する衝撃的な事件が起きた。テキサス州ダラスを訪問中だった史上最年少の大統領ジョン・F・ケネ ディが元海兵隊員オズワルドに射殺されるという事件が発生したのだ。副大統領だったジョンソンはその後大統領になるが、生前ケネディが打ち出していた、ヴェトナムへの援助縮小を覆し、徹底抗戦の姿勢を見せた。やがて、トンキン湾事件が発生し報復として「北爆」が開始されることになる。そして、アメリカの介入により1964年から始まった第二次インドシナ戦争は、ヴェトナム戦争と呼ばれることになる。1965年に米軍プレーク基地が攻撃を受けると、ローリングサンダー作戦を敢行。以降3年間に渡りB52戦略爆撃機による北爆が行われた。また海兵隊がダナンに上陸。続いて陸軍地上部隊も派遣され、兵員は一気に20万人にまで膨れ上がった。当初の大規模作戦の成功は、アメリカの油断を生み、北側のゲリラ戦への戦術移行に対応できずに多くの犠牲を生むことになるが、この時期の小さな敗戦は楽観視されてしまった。また北ベトナム正規軍南進などの情報も軽視され、その後巨人は蟻に足下をすくわれることになる。

■テト攻勢の衝撃と米軍の敗北、「撤退開始」
1968年はヴェトナム戦争の最大の転機となる年である。アジアの旧正月テト。祝日であるこの日は、南北双方に暗黙のうちに休戦状態が成立していた。しかし1968年、1月30日未明から、共産軍による南ヴェトナム全土への一斉攻撃、いわゆる「テト攻勢」が実施された。NFL及びヴェトナム軍は44の省の内36省、242の主要都市の内64都市などに攻撃を仕掛けた。首都サイゴンでは市街戦が展開され、NFL特攻隊がアメリカ大使館を一時的に占拠しその模様はTVを通し世界中に衝撃を与えた。この件でアメリカは軍事的な被害は最小限に留めたものの、メディアに訴えることに成功した共産軍は実質的な勝利者となり、アメリカ国内にも「反戦」という大きな変化を生むことになる。テト攻勢によるヴェトコンの死者は一週間で4万人にも登り軍事面では大失敗となった。同年中には、アメリカ全土に反戦デモが頻発し、多数の徴兵拒否者も出た。苦境に立たされたジョンソン大統領は、次期選挙への出馬を辞めると共に北爆の制限と、米軍の戦闘部隊の順次引き上げを表明した。これによりアメリカは事実上勝利を諦め、和平会議の席に着くことになる。しかしその後も戦闘は激化 し交渉は暗礁に乗り上げる。10月末にジョンソンは北爆の全面中止を発表し、翌月ニクソン政権が誕生すると、ヴェトナムからの撤退が本格的に始まることになる。パリでは、アメリカ、南ヴェトナム、北ヴェトナム、NLFの代表による4者会議がはじまり、ニクソンは南ヴェトナム軍を強化し米軍の支援無しでも戦えるようにし、その間に米軍が撤退する計画を発表した。同年9月には北ヴェトナムの指導者ホー・チ・ミンが死去するが、北ヴェトナムの姿勢に変化はなかった。アメリカ国内では反戦運動が頂点に達し、ニクソンはさらに5万人を追加撤退させることを発表した。ヴェトナムでの米兵の死者は1969年までに4万人に達しており、徴兵者を中心に士気の低下が目に見えてきた。1970年初頭ニクソン大統領のヴェトナム化政策は成功しつつあるとされたが、カンボジアでの越境、ホー・チ・ミンルートの寸断など戦果はインドシナ全体に広がっていくことになる。また、兵士達の麻薬中毒が深刻化し、反戦主義者の命令違反なども多く発生した。11月には特殊部隊が捕虜救出作戦を遂行するが、捕虜はすでに移送されており収容所は空であった。1971年にはカンボジアに続きラオス にも侵攻、反戦運動が更に高まりニクソンの支持率は就任後最低を記録した。追い打ちをかけるように莫大な戦費で国内はインフレを起こし、経済は悪化した。編成された南ヴェトナム軍は最大の規模になったが、皆一様に指揮は低かった。
■ヴェトナム戦争の終結
1972年和平交渉が難航する中、ニクソンは訪中し、国交を正常化する。両者はヴェトナム戦争終結早期実現に向け努力することを約束する。ところが3月末には北ベトナム軍戦車部隊がDMZを越えて南進テト攻勢以来最大の攻撃となったこの猛攻は、イースター攻勢と呼ばれ、中央高地や、メコンデルタ地帯でも猛攻が開始された。この侵攻に対しアメリカは1968年以来の北爆を再開。ラインバッカー作戦の発動である。また、同時に海上の機雷封鎖なども行った。ウォーターゲート事件をなんとか乗り切り再選を果たしたニクソン大統領は、共産側との交渉を続けると同時にラインバッカーII作戦を発動。ハノイ、ハイフォンを中心にこれまでで最大の爆撃を開始した。これにより戦闘能力が低下した北ヴェトナムは、和平交渉の席に着く事になる。1973年に、パリ和平交渉は急速に進展する。1月27日にはアメリカ、南ヴェトナム、北ヴェトナム、南ヴェトナム臨時革命政府(解放戦線)の4者がが和平協定に調印した。しかし数日後には戦闘が再開し、ラオス、カンボジアの共産軍に対し米軍機の攻撃も再開した。共産軍に協定を順守する意志は更々なかったが、アメリカはこの戦争から手 を引く大義名分を探していた。3月末にはアメリカ軍の最後の部隊がヴェトナムを撤退。8月には、米空軍機のカンボジア爆撃も終了。アメリカの軍事活動は終了した。これにより、共産軍は一気に勢力を増大、この時点でインドシナの戦争は終わったと言える。その後、北ヴェトナムは勢いを増し南ヴェトナム軍は各地で苦戦。1975年ヴェトナム戦争は終結する。米軍の援助を失った南ヴェトナム軍は総崩れし、当初2年はかかると見られていた、南の制圧を驚異的な速度で進め、4月には首都サイゴンに迫った。市内はパニックになり、米軍を支援していた関係者は粛正を恐れアメリカ大使館や空港に殺到した。アメリカもサイゴンからの撤退を開始。米大使グラハム・マーチンをはじめとするアメリカ人関係者、及び南ヴェトナム政府要人はヘリコプターで第七艦隊空母などへ脱出した。4月30日サイゴン陥落。北ヴェトナム正規軍は、ほぼ無血の内にサイゴンに入城した。こうして10年にも及ぶヴェトナム戦争は終了した。アメリカにとって第二次世界大戦よりも長かったこの戦争は、北ヴェトナム及びNLFの完全勝利となった。アメリカが惨敗したこの戦争はアメリカの威信を失墜させた。多く の代償と引き替えにアメリカが学んだものは、その後、グレナダ、パナマ、そして湾岸戦争でその真価を発揮することになるが、それがこの戦争で失ったものの対価に値するとはとうてい思えないのである。1975年夏NLFは解散し新政権は北ヴェトナム労働党(共産党)が政権を握る。1976年ヴェトナムは「ヴェトナム社会主義人民共和国」として統一され、サイゴンはホー・チ・ミン市と改名された。それから20年の歳月が流れ、冷戦の終結、ベルリンの壁崩壊、東西ドイツの統合という世界背景の中で1995年、アメリカ合衆国とヴェトナム社会主義人民共和国は国交を結ぶことになる。

■ヴェトナム戦争の参加国と犠牲者

ヴェトナム戦争の参戦軍隊
参戦国/団体 規模(最大時もしくは、総兵力)
アメリカ軍 548,000人
韓国軍 51,800人
タイ国軍 11,870人
オーストラリア軍 7,670人
フィリピン軍 2,200人
ニュージーランド軍 500人
台湾軍 30人
南ヴェトナム政府軍 500,000人
NLF 100,000人
NVA 1,000,000人
中国軍事顧問 54,000人
ソビエト軍事顧問 3,800人
その他の軍隊、組織の人的損害
以下はヴェトナム国内での死者数。
死者数(約)
南ヴェトナム軍 250,000人
南ヴェトナムの民間人 不明(推定500,000人)
NLF/NVA 900,000人
北ヴェトナム民間人 60,000人
アメリカ人 5,8000人
韓国軍 5,000人
オーストラリア軍 700人
ニュージーランド軍 200人
タイ 300人
フィリピン 300人
アメリカ軍の人的損害
アメリカ軍の死傷率の中でも最も高いのが、アメリカ海兵隊の8.33%となっている。これは、相当高い数値で彼らが勇猛であったと同時に、常に激戦区で戦闘をしていたことの証明となっている。
総動員数 死傷者総数 戦死者数 事故死者数 負傷者総数 平均死傷率
陸軍 4,368,000人
134,921人
360,867人 7,252人 96,802人 3.08%
海軍 1,842,000人 6,694人 1,605人 911人 4,178人 0.36%
海兵隊 794,000人 66,141人 13,066人 1,683人 51,392人 8.33%
空軍 1,740,000人 3,249人 1,715人 603人 931人 0.18%
総計 8,744,000人 211,005人 47,253人 10,449人 153,303人 2.41%