| アメリカ軍の戦闘行動 ■第一次世界大戦(1914-1919) 別記載 ■第二次世界大戦(1939-1945) 別記載 ■朝鮮戦争(1950-1953) 別記載 ■ベトナム戦争(1965-1975)
■レバノン派兵(1982-1984) 1982年8月激化するレバノン紛争を収拾させるためにアメリカを中心とする多国籍平和維持軍がベイルートに出動。中東のパリと謡われたベイルートはイスラエル、PLO、シリア軍などの砲火にさらされすでに廃墟と化していた。海兵隊を中心とした監視団も度重なる攻撃に合い、ついには駐留本部ビルをイスラム原理主義者の自爆テロにより爆破され200人以上の死者を出してしまった。これ以降戦闘がエスカレートしたため、84年2月には撤退することになる。■グレナダ侵攻(1983/10/25-27) 1983年10月25日レーガン大統領は、現地人の新政府構築と現地アメリカ人支援、保護のためにグレナダにアメリカ軍を派遣した。すでに首相を含む閣僚数名が射殺されており、革命政権が第二のキューバとなるのを懸念しての対応だった。とくに心配されたのが、米国籍を持つセントジョージ医科大学の医学生数百名の救出であった。10月25日、26日に陸軍第82空挺団、レンジャー部隊と海兵隊が相次いで上陸。SEALチームも派遣されイギリス人提督スクーン卿の救助などを担当した。アメリカは周到な準備と電撃作戦により空港、大学、刑務所などの各拠点を制圧。作戦は大成功となった。しかしこの作戦に於いて嵐の中に降下したSEAL隊員が数名犠牲となり、特殊部隊の運用方針を改めて考え直す意見が浮上する。■パナマ侵攻(1989/5-12) 1989年5月アメリカ合衆国は、パナマにおけるアメリカ人の安全及びパナマ運河の運用の安全を守るという名目でパナマにアメリカ軍を緊急派遣した。これは、米国に麻薬を大量密輸するパナマの独裁者、ノリエガ将軍を退陣に追い込むための作戦だったが、この時点では目的を果たせなかった。しかし10月に入るとパナマでクーデターが勃発。反ノリエガ派の民主主義勢力の保護と、麻薬密輸容疑でのノリエガ将軍の逮捕、運河の航路安全確保などを名目に24000人の米軍を投入した。この作戦における最終目的はノリエガ将軍の逮捕であり、パナマ市街の敵勢力を排除したのち、ノリエガ将軍邸を包囲した。しかしノリエガ将軍は、バチカンの大使館へ逃亡、その後市街戦が続いたが、1月にはアメリカ政府に投降し、裁判を受ける結果となった。連邦裁判では有罪が確定し、懲役350年の刑が言い渡され現在も服役中である。この戦闘で海兵隊は対テロの特殊部隊FASTを投入。関係者を驚かせた。■湾岸戦争1990-1991/2/28 1990年8月2日中東の強国イラクがクェートに侵攻一瞬にしてクェート全土を制圧。アラブ諸国に緊張が走った。この侵略に対しアメリカをはじめとする西側諸国が非難、サウジアラビアなどの親米国も同時に臨戦態勢に入った。そもそも、この侵攻のきっかけは、イラクとクェートが国境線の問題で話し合いがつかず、また同じ地下埋蔵油田から石油を引き上げている点で、イラク側の不満が爆発したために起こったものであった。しかし、この中東湾岸情勢の緊迫は石油市場の高騰を招き西側経済に混乱を巻き起こすとして、西側諸国はアメリカを中心とする多国籍軍を形成。イラクと直接対峙の姿勢を見せた。アメリカは、即座に空母数隻と艦艇からなる機動攻撃部隊を派遣。湾岸地域の空の安全を確保するデザートシールドに従事した。また続々と戦力を増強し「砂漠の嵐(デザートストーム)作戦」が発動。1991年1月17日午前3時バクダットを中心に猛烈な空爆が始まる。中心になったのは空軍のF15戦闘団、戦略空軍のB52、海軍のFA18などだった。一方イラク軍はスカッドミサイルをサウジアラビアなどに発射しその報復をしたが、トマホーク巡航ミサイルと圧倒的な航空戦力の前に徐 々にその力を失っていった。またイラク軍最精鋭部隊である大統領警護隊は、クェートを離れバクダットに集結し、クェート及びイラク国境の警護には民兵があたった。このため多国籍軍は大きな損害もなく、陸上戦の機会をうかがっていた。そして1991年2月24日デザートストームは地上作戦に移行した。アメリカ軍機甲師団を中心にした多国籍軍は航空支援の元クェートを開放。イラク国境を包囲した。2月26日には敗走するイラク地上部隊が米空軍機のFAE(燃料気化爆弾)攻撃により壊滅一度にイラク兵数千人が死亡した。圧倒的な攻撃の中陸上部隊はクェートを完全解放し、2月28日8時、地上戦突入後100時間をもって停戦となった。この戦争はTVゲーム戦争と呼ばれコンピューター画像に映し出される目標がミサイルにより破壊される無機的なシーンを多く見た。アメリカにとってはこれらハイテク兵器の実験場となった戦争であり、報道管制と粘密な作戦が呼んだ完全勝利の戦争だった。■ソマリア出兵(1992/8/19-1993/4) 1992年ブッシュ政権は飢餓に苦しむソマリア人民の救済のため内乱の続くソマリアに軍を派遣した。この上陸はマスコミに事前に察知され、上陸時には、海兵隊はおろかSEALS隊員まで撮影される有様だった。その後食料の運搬、護衛を担当しその他にも、地雷処理、市内の警備、パトロールを担当した。武装勢力による攻撃はあったものの微弱で救済活動は順調に行われていた。しかし1993年2月に米国の介入を良しとしないアイディド将軍の煽動により武装勢力が一斉蜂起、モガディシオ市内で市街戦が始まった。米国は目的を平和維持に切り替え、反撃に転じたが以降も小競り合いは続き93年4月には国連派遣のPKF部隊に任務を委譲しソマリアを去った。■ユーゴスラビア紛争(1999 2-6/9) 1999年2月、バルカン半島の火薬庫ユーゴスラビア、コソボ自治区において、独立を訴えるアルバニア住民とユーゴスラビア連邦軍及びセルビア治安部隊の紛争が激化した。虐殺や略奪を繰り返すセルビア人勢力を牽制するために国連は多国籍軍を派遣。3月24日には、アメリカ海軍を中心とした航空機胴部隊がユーゴスラビアの首都ベオグラードと主要施設にダメージを与えるべく空爆を開始。ユーゴスラビア側も対空砲などで反撃し戦闘は続いたが、多国籍軍の物量の前にユーゴ軍は敗退、空爆開始から79日後の6月9日、地上戦に入ることなくユーゴスラビアはコソボからの完全撤退に合意。同時に平和維持部隊の駐留を認めた。コソボ平和維持部隊と名付けられたこの部隊は停戦の監視とユーゴ軍の撤退の確認を主任務に57000名が各国から派兵された。しかし、今度は多くの虐殺の被害に遭っていたアルバニア人によるセルビア人への報復テロや放火、虐殺が横行した。これによりアメリカは改めて民族問題への介入の難しさと根底にある拭いきれない問題の深さを痛感させられることになった。これから迎える主な任務には今回のようなケースが少なくなく、アメリカ軍はイデオロギーとの 対決を求められることになる。■アフガン戦争(2001 10/7-) ■イラク戦争(2003 3/19-5/1) ■現在のアメリカ軍 1990年代、冷戦の終結を契機にアメリカ軍は軍縮の傾向を見せていく。湾岸戦争を経験した世界の軍隊でもそれは同様だった。現代の戦争では、数による優位が戦闘での優位とは必ずしも一致しせず、多くの情報と、メディアを制した者が勝利を収めるという新しい戦争を生み出した。冷戦期には250万の兵力を有した米軍も現在では30%以上が組織解体されスリム化がはかられている。しかし、アメリカ軍の戦闘能力はまったく衰えてはいない。世界の警察として21世紀の役割を自らに課したアメリカは、軍隊を大規模な戦争に介入させるのではなく、紛争の解決や平和維持などに投入しなければならず、それにともなう緊急展開部隊は必要である。 現代の軍隊に求められるものは、機動力と情報能力である。つまり1万人を越えるような大部隊は移動にも手間取り、現在の世界背景にも対応できるものではない。21世紀の前半には、空母を中心とした航空機動部隊と、戦車、機械化歩兵などを中心とした、緊急展開部隊などが先進国のスタンダードになっていくだろう。アメリカ軍は陸上兵力を中心に兵力を削減。機甲師団や歩兵師団、砲兵大隊など大規模な組織を縮小改編した。そのため、ほ とんどの部隊が旅団以下の小さな戦闘部隊に再構築されたが、小規模になっても装備される兵器の種類が減るわけではなく、兵士にとっては練度の向上と一層の負担が求められる。ただしこれらはあくまでも頻発する地域紛争などの先兵としての役割が大きく、長期的な戦闘が予想される場合には、正面から敵兵力を受け止め、補給、輸送、支援砲撃などの一連の戦闘行動が可能な師団も必要なため、師団そのものが消滅するようなことはまだ無いと考えられる。 現代米軍がコンパクト化されたにもかかわらず、容易に活動できる要素としては、偵察衛星を初めとする情報収集能力の向上と地上部隊と航空部隊が密接な連携があげられる。まず徹底した情報戦により敵の正確な勢力を割り出し、同時に電子戦を展開。敵の防空システムや監視体制を破壊する。そして航空部隊の援護の下、敵地上部隊に適度な戦力を割り振る。また、湾岸戦争でも見られるように制空権を完全に掌握するまでは地上戦には決して持ち込まないため、地上部隊はほぼ無防備な敵を叩くことになる。このため、小規模の戦闘部隊が効率よく戦闘を展開できるのである。小規模な部隊の先行投入は、海兵隊の得意とするところであったが 、これからは陸軍もその一翼を担うことになる。 |
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