アルジェリア内戦
戦争(紛争)名 アルジェリア内戦
戦争期間 1991-2011年
戦争地域 アルジェリア
戦争の結果 内戦の収束
死者数 10万人。

国名 アルジェリア民主人民共和国
首都 アルジェ
人口 3489万人(2008年)
公用語 アラビア語
ベルベル語
フランス語
宗教 イスラム教スンニ派99%
キリスト教
ユダヤ教
民族 アラブ人80%
ベルベル人20%
ベドウィン族他
主要産業 天然ガス、石油、鉄鉱石他
農業(大麦、小麦、柑橘類)
備考 旧フランス領。

アルジェリア戦争(1954-1962)
AFL ←敵対→ フランス軍
MNA

アルジェリア戦争(1960-1962)
フランス軍 ←敵対→ OAS
FAF

アルジェリア内戦(1992-)
アルジェリア軍 ←敵対→ イスラム武装集団


アルジェリアの独立とアルジェリア戦争
アルジェリアは北岸を地中海に面し、東にリビア、西にモロッコ、南部は複数の国家と国境を接する。2011年7月9日にスーダンが分断した為、アフリカで最も広い国土を持つ国となった。古くは古代都市国家カルタゴの植民都市として栄え、その後はローマ帝国のユリウス・カエサルに征服され、ローマの属州となった。以降、ゲルマン系ヴァンダル族、東ローマ帝国の征服を経て、8世紀にはウマイヤ朝のアラブ・イスラム勢力が侵入し、イスラム化した。16世紀に入ると東からオスマン帝国、西からスペインが侵攻した。1533年にはアルジェを拠点にしていた大海賊バルバロッサ(バルバロス・ハイレッディン)がこの地域のオスマン帝国支配を受け入れ、オスマン帝国は1550年にはザイヤーン朝を滅ぼした。以降トルコ人の支配体制が築かれる一方で、地中海を中心にキリスト教国の船を襲うバルバリア海賊が出没する。
1830年にはフランスが進出し、アルジェを占領。この侵攻に対し、スーフィー教団の指導者であったアブド・アルカーディルを中心にした勢力が抵抗運動を起こし、一時期は国土の2/3を制圧したものの、1847年には降伏した。フランスは1847年以降全土を支配し、フランスの重要植民地として北アフリカ支配の拠点としてこの地の支配を強めていく。
第二次世界大戦中はシャルル・ド・ゴールを首班とするフランス共和国臨時政府の結成などもアルジェで行われた。
第二次世界大戦後はアジアから急速に広まった民族自決の運動がこの地域にも飛び火し、急速に反フランス運動が高まっていく。1952年1月にはチュニジア民族運動をフランス軍が弾圧し、国際社会の非難を浴びる。1954年にはフランスの持つインドシナの植民地がジュネーブ協定により独立を果たすと、同じ植民地のアルジェリアでも高まる民族運動によりアルジェリア民族解放戦線(FLN)が組織され、11月1日には一斉蜂起を行った。FLNはアルジェリア国民解放軍(ALN)を設立すると武装闘争を開始。これに対しフランスは即応戦力を増強し各地で鎮圧を行う他、1955年には2個師団10万人がアルジェリアに展開した。
一方の民族解放戦線のゲリラ部隊では最初の1年間だけで6,000以上の農場、400の学校を破壊し、数十万の家畜を略奪。他にも道路、橋梁、通信施設を破壊。軍人、警察官、役人を人種問わず殺害した。
しかしフランス軍の戦力は優位に戦闘を続け、1957年には各地のゲリラ部隊は弱体化し、隣国チュニジアへと撤退した。
同年には同じフランス領のモロッコ、チュニジアでも反仏暴動が発生。1956年にはモロッコ、チュニジア共にフランス連合内での独立を果たす事になる。しかしアルジェリアではフランスの植民地化が進んでいた為、これを固持したいフランス政府とアルジェリアとの戦争は続いていく。
この間、FLN支持者とみなされた現地住民や村落に対するフランス軍による虐殺や、FLNによるフランス人経営の商店などを狙った爆弾テロなどが多発。戦争は泥沼化していく。
1956年には緊急事態法の成立に伴い、予備役の動員が決定され、フランス軍の兵力は25万人に達した。一方アルジェリアへの越境作戦をチュニジア側から行うアルジェリア国民解放軍はフランス防衛線の前に犠牲を大きくした。
1958年6月6日にはフランス軍の戦力は陸海空51万、補助兵力13万という規模にまで拡大。1960年まで行われたフランス軍モーリス・シャール将軍による軍事攻勢「シャール計画」では各地のALN部隊を壊滅に追い込んだ。
同じ頃、フランス本国の世論もFLNの独立運動を支持する側と、フランスの国家的威信を優先させる側に分裂する。これにより、フランス第四共和政府が崩壊し、求心力のあるシャルル・ド・ゴールが首相に就任。第五共和制府をスタートさせる。アルジェリア駐留軍はド・ゴールの戦争継続判断に期待したが、ド・ゴールはアルジェリア戦争の戦費による赤字財政を危惧し、1958年9月にアルジェリアの民族自決を支持。1959年に大統領に就任したド・ゴールは国家分断の危機の中、非常事態宣言を発動する。
1960年、フランスはアフリカの植民地の独立を次々と承認。この独立は後年「アフリカの年」と呼ばれるようになる。これに対し一部軍人や極右主義者による暴動事件「バリケードの一週間」が発生。、事態はすぐに解決したが、極右活動家や過激傾向の軍人は逮捕あるいは更迭された。このような情勢下でド・ゴールは7月に「アルジェリア平和計画」を発表した。1961年にはフランス本土で行ったアルジェリア独立をめぐる国民投票で、75パーセントがアルジェリアの民族自決を支持した。フランスではバリケードの1週間の首謀者連に対する裁判が行なわれたが、被告人のほとんどが軽い量刑で済まされ、釈放後は多くが地下活動に転じ秘密軍事組織OASを結成。フランス軍やフランス官憲に対して反乱を開始。彼らはアルジェリアはフランス固有の領土であると信じ、この戦いをヨーロッパ文明と野蛮との戦いと位置づけた。OASはアルジェリアやフランス本土で、フランス人政治家や警察官僚らを殺害するなどテロ活動を活発化させ、1961年9月にド・ゴールの暗殺を計画するが失敗した。
1961年4月には将軍達の反乱と呼ばれる武装蜂起が発生。アルジェリア駐留軍から空挺部隊が決起し、OASも参加して1958年5月の危機と同じく、内戦の寸前の事態にまで陥ったが、ドゴール大統領の強硬な態度と駐留海空軍の離反により大きな成功は望めなくなった。このときフランス国民は空挺部隊が本土を奇襲するのではと恐れたが、この事件以降、ALNの軍事行動は激減し、フランス軍の平定作戦は小康状態となり、フランス軍は軍内部の粛清とOASとの戦いに注力した。
OASのフランス軍、FLN、およびアルジェリア人市民に対するテロが激化する中、ドゴールはFLNに和平交渉を呼びかけ、1962年3月にはエヴィアン協定が締結され、アルジェリアは独立を承認される。
一方でOASによるテロは激化し、FLNを襲撃するほか「アルジェリアをフランス統治時代以前の状態に戻してから返還する」として、フランスがアルジェリアに建設してきたインフラへの破壊工作を開始した。これに対してFLNも報復を繰り返し、危険地帯となったアルジェリアから一般人が次々とフランスへの移住を始めた。この結果、6月にはFLNとの停戦に至った。
7月にはアルジェリアの独立が決定し、初代大統領にはFLN指導者のベン・ベラ氏が就任した。FLNは以後アルジェリアを主導する政治勢力となったが、長期政権化して次第に国民の不満が高まるようになった。OASはこの戦争後もフランス本土でドゴール暗殺とクーデターを試みたが、失敗し続け衰退した。アルジェリアに残ったフランス系住民はわずかにとどまり、フランス側に味方して戦った25万人のアルジェリア人の多くはFLNの報復により殺害された。この為、多くがフランスへ亡命する事になった。この一連の戦争でアルジェリア、フランス双方は100万人の死者を出した。

アルジェリア内戦
独立後、初代大統領に就任したベン・ベラは社会主義政策を採り、キューバ革命後のキューバと非同盟運動と世界革命路線を推進した。この頃から武器体系はソ連、中国のものとなる。1965年にウアリ・ブーメディエンが軍事クーデターを起こす。ブーメディエンは社会主義路線を継承し、1978年に死亡するまで独裁体制を敷く。ブーメディエンの死後、80年代にはFLNの一党支配体制とアラブ人主導の国家体制にベルベル人らを中心とした反発が高まり、1989年には憲法が改正され複数政党制が認められた。1991年の選挙でイスラム政党のイスラム救国戦線が圧勝すると1992年には世俗主義を標榜した軍部のクーデターが発生。選挙結果は無効となった。
このクーデターにより1992年以降武装イスラム集団などのテロが多発し、国内情勢は不安定化。内戦に突入した。1990年代から2000年代初頭にかけて軍とイスラム原理主義組織の内戦により10万人以上の犠牲者が出た。近年国情は沈静化しつつあるものの、北部や東部ではイスラーム・マブリブ地域のアルカイーダ組織によるテロが頻発し、犠牲者が出ている。

アルジェリア争乱
アルジェリア争乱は2010年12月より翌年にかけて発生した大規模な反政府デモとそれに付随する事件の総称である。隣国チュニジアでのジャスミン革命に端を発する一連の民主化運動「アラブの夜明け」がアルジェリアにも飛び火し、住宅不足や食料価格高騰、失業率の増加による抗議デモなどで53人が負傷。29人が逮捕された。このデモが民主化デモへと変化し、アブデルアズィーズ・ブーテフリカ大統領の強権政策への批判となった。2月11日にはエジプトでムバーラクが大統領退陣を表明、これに呼応し同日夜にはブーテフリカ退陣を要求するデモが発生し、6人が逮捕された。12日にはアルジェで学生や人権活動家、医師、国会議員など2,000人が参加したデモが発生、警官隊と衝突し催涙ガスが使われた他、多数の参加者が拘束され、その数は400名〜1000名とされた。以降全土で警官隊との衝突が多発し、2月16日には一連のデモによる死者が365人に達したと政府当局より発表された。2月24日には政権側が妥協する形で1992年以来、野党勢力への弾圧手段となっていた非常事態宣言を解除した。また解除と同時に様々な改革も発表されるとした。しかし反政府デモ参加者の中には、これだけでは不十分だとする声もある。
2011年11月、一連の民主化運動はほぼ沈静化したが、依然予断を許さない状態となっている。