モザンビーク内戦
戦争(紛争)名 モザンビーク内戦
戦争期間 1975年〜1992年
戦争地域 モザンビーク
戦争の結果 停戦と新政権の樹立
死者数 100万人以上

国名 モザンビーク共和国
首都 マプト
人口 2289万人(2008年)
公用語 ポルトガル語他
宗教 カトリック23%
イスラム教17%
民族 マクア・ロムウェル人40%
主要産業 鉄鉱石、チタン、マンガン、石炭、天然ガス
エビ
備考 旧ポルトガル領。英連邦加盟国

解放戦争時
ポルトガル軍 ←敵対→ FRELIMO

モザンビーク内戦時
モザンビーク軍 ←敵対→ MNR(RENAMO)
ANC 南アフリカ


ローデシア内戦
北ローデシア(現ザンビア)、南ローデシア(現ジンバブエ)で起こった独立戦争。白人支配政権に対して黒人の国家独立を目指した戦争で訓練された傭兵を使った内戦が行われた。ゲリラ部隊は鉄道、公安施設の破壊を行い多くの犠牲者を出したが1980年には黒人政権が誕生しジンバブエとして独立。
植民地時代
 モザンビークは1498年にヴァスコ・ダ・ガマが南アフリカの喜望峰を越えこの地に到達した段階からポルトガルの支配が始まった。地理的に東インド航路の中継地として重要な拠点となり、貿易と船舶への補給で栄えてきた。モザンビーク一帯は人類史の中でも古くから人類が居住してきた歴史があり、およそ300万年前から人類が居住していたとされる。
 ポルトガルはヴァスコ・ダ・ガマの到達した15世紀以降アフリカのアンゴラ、モザンビークなどの支配に乗り出し、16世紀には入植を開始。17世紀半ばには植民地支配が浸透した。
しかしポルトガルの植民地運用は西側諸国の中でも劣悪であった。1858年にポルトガル領では奴隷制度が廃止されたが、その後も契約奴隷制を実施し、奴隷制度は続いていく。1894年には圧政に苦しむ黒人が抵抗運動を行うがポルトガル軍がこれを鎮圧した。

解放戦争
第二次世界大戦が終了し1950〜60年代に入るとアフリカ諸国の独立が相次いだいわゆる「アフリカの年」と呼ばれた時期にさしかかる。しかしポルトガルの植民地であったモザンビークは独立が遅れる。当時植民地の放棄がヨーロッパ全体の傾向として強い潮流を生み出していたがポルトガルはこれに反対し、独裁政権を敷いていたポルトガルのアントニオ・サラザール政権では1951年にモザンビーク等植民地を海外州と呼び変え、実質的な国土とする考えを表明。国際社会の非難を避けようとした。
ポルトガル政府はこの間もポルトガル人の入植と資本投下を行い、国内に黒人失業者が溢れると南アフリカ鉱山への強制的な出稼ぎを実施した。
 こうした中、エドゥアルド・モンドラーネを議長とするモザンビーク解放戦線(FRELIMO)がタンザニアを拠点に武装闘争を開始する。FRELIMOはマルクス主義を支持しソ連の援助を受けていた。このソ連の軍事援助はこれまでポルトガルの行いを非難してきた西側社会の不振を招き、結果的にポルトガル軍はFRELIMOに対して強硬手段を実施する事が可能になった。
1969年にモンドラーネ議長が暗殺されると元病院の医療助手であったサモラ・マシェルがその後を引き継ぎ戦闘を継続する。長く続く解放戦争であったが1974年にポルトガル本国で長期独裁政権がカーネーション革命によって倒れると植民地の支配も終わりを告げ1975年遂に独立を勝ち取った。

モザンビーク内戦
モザンビーク独立後は武装闘争を続けていたFRELIMOは政党化し、モサモラ・マシェル議長は1975年6月25日にモザンビーク初代大統領となる。多くのポルトガル系モザンビーク人は本国ポルトガルへの帰還を余儀なくされた。
隣国ローデシアでは白人国家が形成されており、国連決議による国境封鎖制裁が実施されていた。社会主義国家としてスタートしたモザンビークはこの決議に従い国境を封鎖したが、これに対して脅威を感じたローデシアはローデシア諜報機関を送り込みモザンビーク民族抵抗運動MNR(RENAMO)を結成させる。MNRはすぐに政府軍と衝突し1977年モザンビーク内戦が勃発した。MNRはポルトガル領時代に白人で組織された秘密警察PIDEを母体としており、現地人からは嫌悪の対象であった。この為当初は成人男子や少年を強制徴収することによってしか兵力を集めることができず、学校や病院など社会的弱者の多い施設などを襲撃し人々を恐怖させた。これに対しANC(アフリカ民族会議)はモザンビーク政府を支援し、代理戦争が開始された。
1980年になると白人国家の中心的な存在であった隣国ローデシアが内戦で崩壊、黒人国家ジンバブエが誕生する。これを契機に残る白人国家南アフリカが反共の盾を名目にモザンビークとアンゴラに対して不安定化工作を開始する。南アフリカをはじめとする西側諸国の援助を受けたMNR(RENAMO)は農村部で略奪、虐殺を激化させたため、1984年にはモザンビークと南アフリカ両国の間で不可侵条約を結ぶ事になった。結果南アフリカはMNRへの支援を停止し、モザンビークもANCへの支援を停止した。しかしこれは表面的なもので両勢力とも秘密裏に支援を継続し内戦は継続された。1986年には社会主義を提唱し続けてきたマシェル大統領が飛行機の墜落事故で死亡すると社会主義勢力の弱体化もあり、モザンビーク政府は社会主義体制の放棄を決定し自由市場経済と複数政党制を謳った新憲法を制定。和平交渉の結果1992年に平和協定が締結され、国連モザンビーク活動(ONUMOZ)の部隊が現地に入った。この中には日本国の自衛隊部隊も含まれる。
1994年には国連モザンビーク活動(ONUMOZ)支援の元で選挙が行われFRELIMO党のジョアキン・アルベルト・シサノ大統領が選出された。
 この内戦は典型的な白人社会と黒人社会との軋轢による内戦と言える。
長期の内戦で100万人の犠牲者と170万人の難民を生み出した。現在はIMFが経済支援を行いつつ国際社会への復帰を目指している。内戦は終結したものの内戦中に敷設された200万個にも及ぶ地雷が経済復興の大きな障害になっている。