シエラレオネ・リベリア内戦
戦争(紛争)名 シエラレオネ内戦
戦争期間 1991年〜2002年
戦争地域 シエラレオネ共和国
戦争の結果 停戦
死者数 7万5000人以上

国名 シエラレオネ共和国
首都 フリータウン
人口 569万人(2008年)
公用語 英語
テムネ語
メンデ語
宗教 土着宗教40%
イスラム教50%
キリスト教10%
民族 アフリカ系テムネ族
アフリカ系メンデ族
他多数
主要産業 ダイヤモンド、ボーキサイト
米、コーヒー、ココア
備考 旧イギリス植民地。英連邦加盟国

交戦勢力
シエラレオネ政府軍 ←敵対→ 革命統一戦線
RUF
西アフリカ諸国経済共同体
ECOWAS
軍事革命評議会
AFRC
エグゼクティブ・アウトカムズ社 リベリア国民愛国戦線
NPFL


紛争ダイヤ〜ブラッドダイヤモンド〜
紛争ダイヤ(Conflict Diamond)は、産出される宝石類がその地域の紛争当事者の資金源になっている事に由来し、別名血塗られたダイヤ(Blood Diamond)とも呼ばれている。
アフリカ民族紛争の大きなテーマとして問題視された。衛星からの探査技術が向上した90年代、アフリカの地下資源はこれまでになく潤沢である事が分かってきた。また資源枯渇から中国やインドなどの膨大な人口を抱える途上国は早くからアフリカの地下資源に目をつけ確保に為にあらゆる手段を尽くしている。中でもダイヤモンドはアフリカの内陸部などに豊富な埋蔵量があるとされ、これに目をつけた反政府武装組織などが自らの資金源にする為に他民族などを誘拐し占拠した鉱山などで奴隷として労役を強いた。これらのダイヤモンドは密輸やシンジケートなどによって現金化されるか武器と交換された。これにより紛争は長期化するか反政府組織に優位に働き、アンゴラ、シエラレオネ他で紛争ダイヤの売買が行われた。
1990年代以降は西側社会でもこの点が注視され、自らの購入したダイヤによって更なる人間が犠牲になると言う図式を断ち切るため、内戦当事国に外貨が流れ込まないようにする目的で内戦国から産出するダイヤモンドなどを「紛争ダイヤモンド」と定義し、関係業界はそれらを取引の対象外にすることが求められている。国際社会ではキンバリープロセスというダイヤモンド管理認証制度を取り入れるなどして紛争ダイヤの排除を行っているが、システムにはいくつもの問題点があり、未だに紛争ダイヤは世界で取引されている。
2006年には紛争ダイヤモンドをテーマにした映画ブラッドダイヤモンドが公開され多くの人々が紛争ダイヤの存在を知る機会となった。


グルカ・セキュリティ・サービス(GSG)社
GSG社はアメリカ軍を退役した傭兵ロバート・カレン(ボブ)・マッケンジーが設立した民間軍事会社。その名の通りグルカ兵を主たる構成員としている。自身はアメリカ軍でベトナム戦争に従軍後退役、ローデシアSAS、南アフリカ国防軍などでキャリアを積み、エルサルバドル、ブーゲンビル島、ボスニアなどで活躍した。シエラレオネにはGSG司令官として同社のグルカ兵と共に現地に入ったが1995年2月24日マラル・ヒルにおいてRUFの待ち伏せ攻撃を受け死亡した。RUFの兵士はマッケンジーの遺体の一部を食べて損壊させ、介入者への警告とした。マッケンジーの死後GSG社は政府との契約を破棄し以降エグゼクティブアウトカムズ社がこの任務を引き継ぐ。
シエラレオネ内戦
シエラレオネとリベリアはアメリコ・ライベリアンと呼ばれる開放奴隷がアフリカに帰還し作った国家である。リベリアと同様に帰還した少数の解放奴隷黒人が多数の現地黒人を支配するという図式をとり、慢性的に先住黒人の不満が存在する。1961年にイギリスから独立を果たしたが、主要産業が無く情勢は不安定であった。1985年まではシアカ・スティーブンス大統領による独裁体制が続いたが、軍指導者のジョセフ・サイドゥ・モモが権力を継承した。モモは独裁政権を継続するも一党独裁体制を終わらせるべく政治改革を行ったが、これに不満をもった勢力が暗殺を企て、副大統領を含む60人以上が逮捕された。1987年にはモモ政権の打倒を狙いリビアで軍事訓練を受けた組織が革命統一戦線(RUF)を結成した。RUFリーダーのアハメド・フォディ・サンコーはリビア滞在中にカダフィ大佐からリベリアのチャールズ・テーラーを紹介される。当時隣国リベリアでもサミュエル・ドウ大統領の独裁が続き、これを妥当する動きがあったのだ。1989年にはチャールズ・テーラー率いるリベリア国民愛国戦線(NPFL)がリベリア国内に侵攻し武装闘争が開始される。
これに呼応するようにサンコー率いるRUFもリベリア国境付近のシエラレオネ南東部で武装蜂起し、NPFLの支援を受けながら越境攻撃を繰り返し、虐殺や略奪を重ねながら広範な領域を支配した。
1992年4月29日になるとシエラレオネ政権内でバレンタイン・ストラッサー大尉率いる軍将校のクーデターが発生しモモ大統領はギニアに亡命。モモ政権は倒れ、モモ自身は2003年に死亡している。
この頃にはシエラレオネの山中でダイヤモンドが採掘されており、RUFはそのダイヤモンドを売却した利益で武器を購入し、勢力を拡大した。1993年にはストラッサー率いる政府軍に攻勢をかけ遂に首都フリータウンを占拠するに至った。
この為ストラッサーは一方的に休戦を宣言するが、この後2度のクーデターが発生し政権を追われる。
1995年には追い詰められた政府軍を立て直すべくストラッサー政権が民間軍事会社グルカ・セキュリティ・グループ(GSG)社に兵士の訓練を依頼した。しかし同社司令官がRUFの待ち伏せ攻撃で死亡するなどした為、契約は破棄。次にエグゼクティブアウトカムズ(EO)社がこの任にあたった。EO社は約300人の部隊を投入し、RUFが占拠していたダイヤモンド鉱山の奪還に成功した。
しかしこの功績はこの後の政府側クーデターなどで打ち消されてしまう。
1996年にはジュリアス・ビオ准将による無血クーデターが起き3月には選挙が行われ文民政権のアフマド・デジャン・カバー政権が誕生したが、RUFはこの文民政権とも激しく対立した。
1997年にはまたしてもクーデターが発生し、軍事革命議会AFRCのジョニー・ポール・コロマ少佐が国家元首となった。この政権は一時的にRUFと手を組んだがこれを危惧したナイジェリアなど西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の軍事介入により政権は瓦解。文民政権のカバー大統領が返り咲いた。

1997年にはリベリアでRUFと共闘関係にあったNPFLのテーラーが政権を獲得した。この内戦の結果はシエラレオネに大きな影響を与える。RUFはダイヤモンドの販路をリベリアに得る事で大量の武器弾薬を入手する事に成功したのだ。安定した販路を手に入れたRUFは誘拐した人間を鉱山で強制労働につかせダイヤモンド掘削作業を強化していく。
RUFのゲリラ戦は虐殺、レイプなど他のアフリカの反政府勢力と同様の行為に及んだが、村を襲い鉱山労働者を確保した他、少年、少女も拉致し兵士や性的奴隷にするなど非道の限りが尽くされた
また、民間人の手や足を切断し、農作業が不可能な状態に置くことで食糧確保をRUFに依存させ、RUFに対して協力せざるを得なくなる状況を作り出した。少年兵は脅迫または洗脳され、両親の殺害や隣人の手足の切断や殺害を強制され、RUFへの忠誠心、信仰心を叩き込まれていく。
1998年7月になると国際社会も動きを見せ国連では安保理決議1181を決議。国連シエラレオネ監視団(UNOMSIL)が設立された。10月にはRUF指揮官であり議長のサンコーが政府から戦争犯罪の罪で死刑判決を受け、これを契機に、RUFが全土で大攻勢を仕掛ける。
 RUFは最終的に首都フリータウンを含む全国土の3分の2を支配下に収め、国連のUNOMSILは撤退に追い込まれる。

1999年7月にはロメ和平合意がなされ、国連監視下での武装解除と引き換えにRUFの政権参加が認められる事となった。この為国連は前回よりも強力なPKF部隊である国連シエラレオネ派遣団(UNAMSIL)を送り込む事になる。この行動にRUFは態度を硬化させるが、逃亡中のRUFのサンコーがフリータウンで市民により拘束され、シエラレオネ警察に引き渡されると2000年5月には停戦が合意となり内戦は終結した。
サンコーは戦争犯罪の罪で裁判にかけられる予定であったが衰弱しており2003年に心臓発作のためフリータウンの病院で死亡した。

戦争(紛争)名 リベリア内戦
戦争期間 1989〜1996年
戦争地域 リベリア共和国
戦争の結果 反政府軍NPFLの勝利
死者数 15万人以上

国名 シエラレオネ共和国
首都 モンロビア
人口 395万人(2008年)
公用語 英語
テムネ語
メンデ語
宗教 土着宗教40%
イスラム教20%
キリスト教40%
民族 クペレ族、バサ族、クル族、ゴラ族、ギオ族、マノ族、クラン族、バル族、マンディゴ族他
主要産業 ダイヤモンド、鉄鉱石
米、コーヒー、ココア、サトウキビ
備考

交戦勢力(リベリア内戦)
リベリア軍AFL ←敵対→ リベリア国民愛国戦線
NPFL
民主リベリア統一開放戦線
ULIMO

敵対
リベリア
独立国民愛国戦線
INPEL

少年兵問題
NPELには5歳以上の「チャイルド・ソルジャー・ユニット」と呼ばれる少年兵部隊がいたが、他の武装勢力にも同様に少年兵がいた。彼らは両親を殺されるかまたは脅され自ら殺すなどし強制的に兵士となったもので、場合によっては麻薬などを大量投与され武装組織の支配下に置いている。少年兵は幼い頃から殺戮を強要され、近隣の村などを襲い虐殺や強姦などを行った。政府が衰弱しているため外国からの援助で社会復帰プログラムを行っているが課題は山積している。
また負傷し手や足を失っている元少年兵も多く、社会復帰に欠かせない子供用の義足や義手が不足している。これら問題はアフリカの紛争地域ではしばしば見られ、これら子供達が隣国などに兵士として売買されているなどの問題もある。



交戦勢力(第二次リベリア内戦)
リベリア軍(NPFL) ←敵対→ リベリア民主和解連合
(LURD)
リベリア民主運動
(MODEL)
リベリア内戦
 リベリアはシエラレオネと同じく1822年にアメリカ本土から黒人の子孫が居住を開始し、現地住民を取り込んで1833年にリベリア連邦となった。1847年にはアフリカ最初の共和国として独立。その後は少数の開放奴隷の子孫が多数の現地住民を支配する形で長く存続された。
 リベリアは多くの民族が居住しており帰還黒人の支配に不満も多かった。1971年に初代大統領のタブマンが死去するとその跡を継いだトルバート大統領が当時の警備隊長のドウ軍装に暗殺されクーデターが発生。
その後ドウ大統領が誕生する。ドウ大統領はアメリコ・ライベリアン優遇政策を継続しつつも、出身民族のクラン族やマンディング族を優遇する縁故政治を行い政府は腐敗していく。
 これに対して1985年にはクーデターが発生。クーデター自体は未遂に終わったものの、政府は事件に関わったギオ族、マノ族を大量虐殺した。その後も両民族への激しい弾圧を行う。その結果反政府組織が蜂起し内戦が勃発。1980年代には各民族が政権争いを行い9回以上のクーデターが発生する。

1989年にはドウ政権打倒の為、リビアで訓練を積んだチャールズ・テイラー率いるリベリア国民愛国戦線(NPLF)がコートジボワールから侵攻し、内戦が本格化。1990年1月4日にはドウ政権に批判的として知られていたロバート・フィリップス氏がモンロビアで反逆罪の理由で酷刑に処される。これにより部族間の対立図式が深まり、ニンバ郡ではリベリア国軍によりギオ族とマノ族の住民500人が処刑され、報復にNPFLもブトゥオ村で200人の虐殺を行った。
1990年2月に入るとNPFLでも内紛が発生し、NPFL内部でも親米派であったプリンス・ジョンソンが親リビアで自らの出身部族のギオ族との縁故を深めるテーラーと対立。新たにリベリア独立国民愛国戦線(INPEL)を結成した。これによりリベリア政府軍、NPFL、INPELの三つ巴の戦いとなっていく。
5月にはアメリカ海兵隊がリベリアの大使館職員を救出脱出させる為の作戦「シャープエッジ」を敢行。行き詰まったドウ政権は自身の身の安全と亡命を条件に政権を放棄する事をアメリカ政府に打診するが、アメリカはこれを拒否した。
ドウ大統領は次にINPELとの同盟を画策するがプリンス・ジョンソンはこの提案を逆手に取り、仲介をした西アフリカ諸国経済共同体(ECOMOG)の本部で会合を持ちかけ、ECOMOG敷地内にいたドウの非武装の兵士90人を襲い全員を射殺。その後本部からドウ大統領を連れ去り処刑した。

この後マンディゴ族で構成されるイスラム系のリベリア民主統一解放運動(ULIMO)の中でも武闘派のエーモス・ソーヤーらが武装蜂起し、モンロビアのみの暫定的な大統領になった。これに対しNPFL、INPELは抵抗を強め、1992年にはULIMOのソーヤー、NPFLのテーラー、INPELのジョンソンがそれぞれ内戦を継続した。
さらにULIMOから分離したクラン族出身のルーズベルト・ジョンソンが組織したULIMO-J(Johnson faction)が戦闘に加わった。ジョンソンは殺されたドウ大統領と同じクラン族出身であった。

1995年8月には西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)が和平協定の仲介と選挙監視を行い、1996年にはテーラー政権が誕生する。しかしこの選挙は脅迫など不正行為が見られ、一般国民はテーラーを大統領にしなければ、また内戦が激化すると恐れていた為、半ば強引に決定されたものであった。またこの選挙から除外されたULIMOの一派であるジョンソン派が不満を募らせ、1996年に首都モンロビアでNPLFと衝突し再び戦闘が発生した。
テーラーは政権獲得後、隣国シエラレオネの反政府武装勢力RUFのリーダーでリベリアで共に軍事訓練をしたサンコーに支配地域のダイヤモンドを密輸し、代わりに武器と交換する密約を交わし、紛争ダイヤの取引が横行した。1997年に一応の終結を見た同内戦では7年間に渡って15万人以上が死亡。人口の80%の200万人が難民流出した。

第二次リベリア内戦
 1999年にはテーラー政権に不満を持つ反テーラー派武装組織リベリア民主和解連合(LURD)やリベリア民主運動(MODEL)が武装蜂起し勢力を拡大。
2003年には首都モンロビアまで侵攻したが、テーラー政権はく衰退しており、これを防ぐ手段は残されていなかった。6月17日には停戦が合意され、国連平和維持部隊及びアメリカ陸軍がリベリア国内に展開するに至った。テーラー大統領はナイジェリアに逃亡したが、シエラレオネ内戦に於ける戦争犯罪を審理している。モーゼス・ブラー副大統領が暫定的大統領に就任するが、2005年には再度選挙が行われ、国連開発計画局長などを務めたエレン・ジョンソン・サーリーフ氏が大統領に当選した。
今後は200万人を超える難民の帰還プロジェクトの推進が課題となる。また少年兵の社会復帰も大きな問題として残されている。