スーダン内戦
戦争(紛争)名 スーダン内戦(第二次)〜ダルフール紛争
戦争期間 1983年〜
戦争地域 スーダン、南スーダン
戦争の結果 南スーダンの独立。継続中
死者数 240万人以上

国名 スーダン共和国
首都 ハルツーム
人口 3089万人
公用語 アラビア語
英語
ヌビア語
宗教 イスラム教スンニ派70%
アミニズム(伝統宗教)18%
キリスト教5%
コプト正教
民族 ヌビア人、ナイル系黒人52%
アラブ系黒人39%
クシ系ペジャ 6%
外国人2%他
主要産業 石油、農業
レアメタル(未採掘)
備考 1956年エジプト、イギリスより独立。

国名 南スーダン共和国
首都 ジュバ
人口 826万人
公用語 英語
ディンカ語
ヌエル語
ジュバ・アラビア語
宗教 アミニズム(伝統宗教)
キリスト教
民族 ディンカ人
シルック人
ヌエル人
アザンデ人
ジュチャル人
アチョリ人他
主要産業 石油、金、銀、鉄鉱石、ダイヤモンド他
農産物(綿花、ピーナッツ他)
備考 旧スーダン領。
2011年7月9日スーダンより独立

マフィディーの乱(1885-1899)
エジプト軍 ←敵対→ マフディー軍
イギリス軍

第一次スーダン内戦(1954-1972)
北部イスラム勢力 ←敵対→ 南部黒人勢力

第二次スーダン内戦(1885-1899)
スーダン軍
(アラブ系)
←敵対→ スーダン民族解放軍
(SPLA)

ダルフール紛争(2003-2004)
スーダン軍 ←敵対→ スーダン解放軍
(SLA)
ジャンジャウィード 正義と平等運動
(JEM)
中国

南スーダン・スーダン国境紛争(2012-)
スーダン軍 ←敵対→ 南スーダン軍

国際テロリスト「カルロス」最後の潜伏地
国際テロリストとして活動したカルロス(カルロス・ザ・ジャッカル)本名イリイッチ・ラミレス・サンチェスはベネズエラで資産家であり共産主義者の家庭の長男として生まれた。1973年から1984年にかけて14件のテロに関与し、合計で83人を殺害。100人を負傷させた。
14歳で共産党に入党し、イギリスに留学したカルロスは1968年にソ連の首都モスクワにあるパトリス・ルムンバ名称民族友好大学に入学。スパイ技術や爆破工作技術を学ぶ。同校は共産主義の革命家やテロリストが数多く在籍していた事から西側世界ではテロリスト養成学校と呼ばれる。
1969年にはヨルダンに向かい、そこで多くのテロリストと関係を持つ。1970年にはパレスチナのPFLPに合流しワディー・ハッダード率いる分派組織特別作戦グループに加わり、1972年には日本赤軍の起こしたテルアビブ空港銃乱射事件に関与した。
1974年にはパリの商店や薬局を爆破し、1975年にはフランスのオルリー空港を襲撃。同年3月にパリ潜伏中にアジトへ踏み込んできたフランス国土監視局DSTの捜査官2人を射殺し逃亡。この時「カルロス」を追っていたイギリスの新聞社ガーディアン紙が、ロンドンのアパートに遺留品があるという連絡を受けて取材していた際、本棚にフレデリック・フォーサイス原作でシャルル・ド・ゴール暗殺計画を描いた小説『ジャッカルの日』があったことを報じたために「ジャッカル」というあだ名がつくようになった。このDST 捜査官射殺事件の時から、カルロスはDSTに執拗に狙われるようになった。12月には世界中にその名が知れ渡ったOPEC本部襲撃事件を引き起こす。オーストリアのウィーンで開かれた石油相会議を狙い、カルロスら6人は警備の警官を銃撃後、各国代表ら総勢70名を人質にとった。オーストリア当局は交渉の結果要求をすべて受け入れ、身代金の支払い、国営ラジオでの声明文読み上げなどが行われた。その後用意された飛行機でアルジェリアへ逃走したもののアルジェリア当局にほとんどの身代金を没収された。リビアからブダペストへ向かったカルロスだが人質を殺さずに解放してしまったことやカルロスが身代金の一部を着服したことからハッダードから叱責され特別作戦グループを追放された。
その後イラクのバグダッドで金次第で誰の命令も受ける傭兵テロリストの様な存在になった後ハンガリーのブダベストに潜伏。この時東ドイツ情報機関シュタージやシリア空軍情報部などと接触している。
1984年からはダマスカスに移動しシリアの関与でベイルートでのフランス外交官夫妻殺害、駐レバノン大使殺害、パリに亡命中のムスリム同胞団幹部の殺害未遂などに関与した。
1992年にはイラン当局の手引きでスーダンに入国したがそれを知ったフランスがスーダン政府に対して度重なる身柄引き渡し要求を行い、これに応える形で遂に逮捕を決定する。
1994年8月14日にスーダンの首都ハルツームでスーダン警察に拘束され15日にはフランスへ移送。1997年の裁判では自ら革命家を名乗り、終身刑の判決を受けると左手のこぶしを突き上げ「革命万歳」と叫んだ。カルロスは現在パリのサンテ刑務所に収監されている。


中国のスーダン進出
中国は石油の埋蔵量が多いスーダンへの介入を90年代から強めており、ダルフール紛争に対して政府軍、民兵組織ジャンジャウィードなどに武器を供与している。攻撃ヘリ、装甲車、小火器など多くの兵器が中国製で、更に中国人労働者を多数送り込み、インフラ整備などの経済援助を行っている。
中国は原油獲得の為にスーダン政府及びジャンジャウィードによる民族浄化を黙認するどころか、積極的に支援している。更に国連軍の派遣採決に対しては中国が拒否権を発動しこれを妨害している。この為同時期に開催された北京オリンピックでは人道団体から天安門事件以来の強い批判を受けた。


アルカイーダの影
スーダンは2001年に起こった同時多発テロの首謀者ウサマ・ビンラディンを1991年から1996年の間かくまい、ビンラディン自身はこの間にスーダンで建設業、農業などを事業展開。自身の財政基盤を作りあげ、アルカイーダの拠点とした。1995年にはエチオピアで起こったエジプトのムバラク大統領暗殺未遂事件に関与したとして国際社会から非難された。国連はこの後スーダンに対し経済制裁を敢行していく。アメリカは2001年の同時多発テロとアルカイーダ、ケニア・タンザニアの米大使館爆破などの関与により、スーダンの首都ハルツーム郊外の工場施設などにトマホークミサイルによる攻撃を敢行。スーダンをテロ支援国家として位置づけている。
また、スーダンは1990年代にパレスチナのイスラム聖戦、ハマス、エジプトのイスラム聖戦、アルジェリアの武装イスラム集団なのどテロリストが本拠地として活動しており、国際的イスラム過激派の巣窟となっていた。これらの集団を指揮するのはイスラム教指導者のハッサアン・アル・トゥラビ師であった。トゥラビ師はイスラム原理主義を推進する人物でスーダンの度重なるクーデターなどで暗躍した。
スーダンは北アフリカ地域に位置する国家で東に紅海を持つ以外はリビア、エジプト、チャド、中央アフリカ、エチオピアなどに国境を隣接する。2011年7月に南スーダンが独立するまではアフリカでも最大の面積を持つ国家であった。スーダンはアラビア語で黒い人を意味し、元来はスーダンを含む東アフリカからサハラ地域の西アフリカまでの広大な地域に住む黒人地域の総称として使用されてきた。
古代エジプトの影響を強く受け、紀元前2200年頃には南部から移動してきた黒人がクシュウ王国と呼ばれる国家を築いた。この国家は中王国時代のエジプトに影響されて勢力を拡大したものの、親王国時代にはトトメス一世によって滅ぼされている。
紀元前900年頃にはナパタを都としてクシュは再考し、衰退したエジプトに攻め込んで第25王朝を建国した。第25王朝はその後アッシリアに敗れヌビアへ撤退するが、ヌビアの支配権は保持した。その後メロエ王国を建国し、鉄の産地として栄えるが、4世紀にはエチオピアのアクスム王国によって滅ぼされる。その後三国に分かれて統治されるが、5世紀頃にはキリスト教を導入し、以降1000年近くキリスト教を信仰していく。
1505年になるとイスラム勢力がこの地に到達し、キリスト教勢力は滅亡。新たにフンジ王国が建国される。1596年にはイスラム教ダルフール王国なども建国され、完全にイスラム化された。

第一次スーダン内戦とイスラム化
1821年にエジプトのムハンマド・アリー朝がスーダン北部を征服するとエジプトは次第に南部への支配を広げていく。しかし今度はエジプトそのものがイギリスの保護下に置かれ、イギリスの力を借りて支配を強めていく。これに対してムハンマド・アフマドを指導者とするマフディーの乱が勃発し、1885年にはエジプト・イギリス軍との戦闘で、アヘン戦争、太平天国の乱などで勇名を馳せた英国の著名な軍人チャールズ・ゴードンと彼の率いる部隊を全滅させ勝利する。これによりマフディー国家が建国される。
1898年になるとイギリス、エジプトとの戦闘が再び発生し、オムダマーンの戦いでマフディー軍に勝利し、マフディー国家は制圧された。しかし当時マフディーを支援していたフランス軍との戦闘も発生し、これを問題にしたイギリス、フランス両国は、スーダンの利権とモロッコの利権を交換する事で解決を図り、イギリスはこの地域での支配を強めていく。
スーダンは1899年にはイギリス、エジプト両国の共同統治領となり、1924年以降はスーダンを南北で分割しそれぞれをイギリス、エジプトが統治する手法がとられた。
これに対し1924年頃から北部を中心に独立運動が起こる。この独立運動はイスラム教徒が中心となって行われ、1954年には自治政府が発足した。これに対し、古くから衝突してきたイスラム化されていない南部黒人住民と北部イスラム独立派勢力の間で武力衝突が頻発し、1955年に内戦が勃発した。
1956年1月1日には共和国として独立を果たすも、内戦は継続され、戦闘は1972年のアディスアベバ合意まで続く。

第二次スーダン内戦と大虐殺
内戦終結もつかの間の1983年7月にクーデターで政権を採ったモハメド・アン・ヌメイリ大統領が1983年9月にイスラム法を導入した事から、南部スーダンの黒人有力民族ディンカ人を主体とする非アラブ系のスーダン民族解放軍(SPLA)がゲリラ闘争を拡大し、第二次スーダン内戦に突入した。
1898年6月30日にはオマル・アル・バシール准将が民族イスラム戦線(NIF)と連携して無血クーデターを成功させる。バシールはイスラム化を推進し、首相兼任のまま大統領に就任。非常事態宣言を行い、政党活動を禁止し、実質的な独裁体制をとった。
1992年6月にはナイジェリアの仲介で和平交渉が行われるもSPLAの和平派と強硬派が分裂し戦闘は継続された。1996年にはSPLAとスーダン反政府勢力の民族民主戦線が合流し大攻勢をしかける。南部キリスト教徒を支援するウガンダの後押しもあり内戦は東部にも拡大していく。
1996年の議会選では欧米諸国との関係改善を図るバシール大統領派が圧勝し、バシール政権が存続した。
1998年に新憲法が国民の圧倒的支持で成立すると、1898年以来禁止されていた政党活動が解禁となる。この結果、国民評議会のハッサン・アル・トゥラビが大統領の権限縮小を狙い、活動を行うが、バシール大統領との確執が表面化し、親トゥラビ派の排斥を開始する。トゥラビは新党「人民国民会議」(PNC) を結成し対抗したが、12月の議会選、大統領選挙では野党が参加をボイコットした為、再度バーシル政権が勝利する。
2001年2月にはPNCと南部のスーダン人民解放運動(SPLA)がスイスのジュネーブで第二次内戦終結や民主化に向け協力するとの覚書に調印したため、バーシル政権はトゥラビ氏らを逮捕して対抗した。
この間も内戦は続き、政府軍に支援された民兵組織が反政府系の民間人を次々と虐殺し、死者は増大していった。1983年から続く一連の内戦での犠牲者は200万人以上と推定され現在も150万人以上が難民として周辺国に散在している。2002年には一応の停戦となったものの、スーダン国内は不安定で、この後も紛争が続く。

ダルフール紛争
ダルフール紛争は「史上最悪の人道危機」と呼ばれている。ダルフール地方はスーダン西部に位置し、北をリビア、西をチャドと中央アフリカに国境を接している。この地方では古くからフール人、マサリート、ザガワなどの非アラブ系黒人と13世紀以降侵入してきたバッガーラと呼ばれるアラブ系民族が混在している。いずれもイスラム教徒であるが、両者は長年緊張関係にあり、度々武力衝突を繰り返してきた。更にフール人やマサリートは定住農耕民族であり、アラブ系やザガワは遊牧する牧畜民であったので、土地や水などの資源をめぐり、経済的な需要からも二つのグループに分かれて紛争が生じた。
第二次スーダン内戦が終結すると暫定南スーダンとスーダンの間で石油利権の問題等が話し合われたが、ダルフール地方の問題は置き去りにされ、ダルフールの非アラブ系民族の公正な扱いの要求を満たすものではなかった。
この事から2003年2月、ダルフール地方で黒人住民の反政府組織スーダン解放軍(SLA)と正義と平等運動(JEM)がゴロにある警察署を襲撃し、アラブ系の中央政府に対して武装蜂起した事件をきっかけに虐殺の応酬が繰り返される事となった。この事態に対し、アラブ系民兵組織のジャンジャウィードは黒人住民に対し無差別殺害、強姦、略奪、家屋の破壊を実行する。またスーダン政府はジャンジャウィードによる地上攻撃を空爆で支援し、犠牲者は増大した。アラブ系の村が攻撃される事は無く、非アラブ系の村だけが徹底的に焼き尽くされ、この破壊の対象はモスクにまで及んだ。
どちらも徹底した虐殺を繰り広げたが、戦力的にはジャンジャウィードが上回り、終始優勢を保った。この結果非アラブ系の住民10万人以上が難民となり隣国チャドに逃げ込んだ。また飢餓も発生し、35万人以上が死に瀕しているとされた。
ジャンジャウィードの攻撃は執拗で、隣国チャドの難民キャンプにまで及び、2004年4月には国境に展開していたチャド軍と衝突し、民兵側で70人、チャド軍にも10人の戦死者が出た。
2004年4月8日には一応の停戦が宣言され、2004年7月5日にはアフリカ連合とEUが停戦監視団を送り込んだもののその後も攻撃は継続された。
これら問題に対しスーダン政府は、これらの問題は国内で発生した小競り合いであり、物資などの支援は必要であるが内政問題に干渉しないようにとイギリス、アメリカに警告し、自らがどんな軍事援助をも拒絶するだろうと語った。
2006年1月20日、SLMとJEMは西部スーダン革命勢力同盟(ARFWS)として統合すると発表したが、5月までに決裂した。そしてSLAから分裂したSLAミナウィ派のみがスーダン政府と和平合意に応じ、ミナウィ派はジャンジャウィードや政府軍と共に住民を攻撃するようになった。
2008年5月6日にはスーダン政府軍がダルフールの小学校と市場をソ連製航空機アントノフで爆撃、7人の子供を含む14人が死亡した。
2008年5月11日には首都ハルツーム近郊に進攻したダルフール地方の正義と平等運動(JEM)を撃退したと宣言。また、侵攻を支援したとして隣国チャドとの国交断絶を表明した。スーダンとチャドは互いの反政府武装勢力を支援するテロ支援国家だとして頻繁に対立している。しかしダルフール紛争で武装勢力がスーダン首都であるハルツームに迫ったのは初めてのことであり、る

南スーダンの独立と国境紛争
2005年7月9日、バシール大統領とSPLAのジョン・ガラン最高司令官を第一副大統領とする暫定政府が発足した。暫定政府が6年間の統治を行なったうえで南部で住民投票を実施し、北部のイスラム教徒系政権と南部政府の連邦を形成するか、南部が独立するかを決めることになった。
しかし7月30日に副大統領のジョン・ガランの乗ったヘリコプターがウガンダ訪問からの帰路で墜落し、事故死した事で、これを聞いた南部住民数千人がアラブ系住民を襲撃するなどの事件が発生。
2007年には南スーダンとのアビエイ境界線を巡り、政府軍などがディンカ系住民を攻撃し戦闘が激化、2008年には正規軍同士が交戦した。
国際社会はダルフール紛争など一連の動きに対し、国際刑事裁判所が2009年3月4日にダルフールに於ける人道に対する容疑でバシール大統領に逮捕状を出した。2010年7月12日には大量殺害の犯罪容疑で2度目の逮捕状が出された。
2011年1月9日南部の自治政府による独立の是非を問う住民投票が行われ、南スーダン独立票が過半数に達した。この投票のために国連はスーダン派遣団をおくり、住民投票監視団には一員として元米大統領ジミー・カーターがスーダン入りしている。
南スーダンは独立したが、同国には石油、金など豊富な地下資源が眠っており、その境界の資源の帰属を巡って現スーダン政権との間に問題を多く抱えている。
2011年11月にはスーダン軍が南スーダン北部のユニティ州イダや上ナイル州の難民キャンプを爆撃した。また、スーダン軍は南コルドファン州と青ナイル州でスーダン人民解放運動・北部(SPLM・N)民兵の掃討作戦を進めている。2012年にはスーダン領となったアビエイ地区であったが、その近郊にあるヘリグリ油田は南スーダンに帰属するとの主張により、2012年3月に南スーダン軍が油田に侵攻。南スーダン・スーダン国境紛争が勃発した。
この紛争では軍隊同士の本格的な戦闘が発生し、拠点や市街、橋梁への空爆が行われた。この動きに対して国連安保理は両国を非難し、即時停戦を求めた。2012年5月2日、安保理はスーダンと南スーダンの両国に即時停戦を要求、守られない場合は両国に経済制裁を警告する決議案を全会一致で採択した。難色を示していた中国、ロシアも賛成に回ったがその後も戦闘は続いた。
スーダンは1956年の独立以来、比較的平穏であった1972年から1983年の11年間を除く期間に、240万人が内戦や虐殺で死に、400万人の民が家を追われ、60万人の難民が発生しているとされる。