西サハラ紛争
戦争(紛争)名 西サハラ紛争
戦争期間 1975-1991年
戦争地域 西サハラ
戦争の結果 停戦
死者数 不明

国名 サハラ・アラブ民主共和国
(国連非加盟)
首都 アイウン
人口 50万人
公用語 ハッサニア語
スペイン語
フランス語
宗教 イスラム教
民族 サハラウィー人
アラブ人
ベルベル人
主要産業 リン鉱石
オアシス農業、遊牧
備考 旧スペイン領。

西サハラ戦争(1975-1991)
モロッコ軍 ←敵対→ ポリサリオ戦線


西サハラは紀元前5世紀頃のカルタゴの冒険者航海者ハンノによって到達されたとされる。近代にはベルベル人が支配し、8世紀にはイスラム教とアラビア語が導入されている。西サハラは古くから砂漠地帯であり、国土の大半がサハラ砂漠である。過酷な環境から世界一人口密度が低い地域とされ、基本的に国家として存在した事が無い地域である。
北はモロッコ、南と東はモーリタニア、東の一部をアルジェリアに隣接し、西側は大西洋沿岸となる。フェニキア人などが入植した記録があるものの、困難な砂漠地帯の為、その多くが開拓されずに現代に至る。1884年になるとスペインがこの地に侵入し、ボハドール岬からブラン(現ヌアウディブ)岬までの海岸地帯を保護領として宣言し、後に範囲が拡張された。
1956年、隣国モロッコが独立すると、スペイン領である西サハラの領有を主張する。1957年にはイフニー戦争が勃発し、モロッコ解放軍はシジ・イフィニーを占領した。これに対してスペイン軍はカナリヤ諸島から部隊を投入し、シジ・イフニーを奪還。この一連の軍事衝突の結果、1958年にはスペインがこの地域一帯を統合し、スペイン領サハラとした。
1970年にはアイウンのゼムラ地区でハラカト・タハリールが反植民地デモを主導し、これをスペインが弾圧するゼムラ蜂起が発生。ここから武装闘争が始まり、1973年西サハラ地方の独立を画策する現地住民がエル・ワリ書記長の下、西サハラ民族解放戦線(ポリサリオ戦線)を結成した。

西サハラ戦争
1975年後半スペインは権力の委譲の期日について協議するために、ポリサリオ戦線のリーダーエル・ワリ氏と会談した。しかしモロッコとモーリタニアはフランコ政権に圧力をかけ、西サハラの領有を主張した。しかしポリサリオ解放戦線と大多数のサハラウィー人はモロッコ、モーリタニアへの帰属ではなく、スペインからの独立を主張していた。1975年の国際司法裁判所による西サハラの地位についての勧告では、いくつかの部族がモロッコとの歴史的なつながりを持つものの、それが西サハラとモロッコの間に"領土主権のつながり"をもたらすには足らないと見なしていた。
この事はモロッコ、モーリタニア共に受け入れがたい結果となった。
1975年10月31日、モ ロッコはポリサリオ戦線の陣地を攻撃するため西サハラへ軍隊を派遣。またモロッコは政治戦略の一環として、西サハラに対して大規模なデモ行進を行う。35万人がモロッコ南部の都市タルファヤに集結し、モロッコ王ハサン2世の合図を待って西サハラに進入。緑の行進が始まった。
この結果スペインはモロッコの要求に従い、二国間協議の場に赴く事になる。この結果同地域をモロッコ、モーリタニアの二国間で割譲する事となる。
モロッコは1976年に実際に西サハラの北3分の2を併合し、モーリタニアの撤退後、1979年に残りの部分を併合した。これに対し、ポリサリオはサハラ・アラブ民主共和国(SADR)を樹立宣言する。ポリサリオは隣国アルジェリアやリビアの支援を受け1976年から武装闘争を開始した。当時の北アフリカの主要国であるアルジェリア、リビア、マリは独立後の社会主義化が著しく、ソ連やキューバからの支援を受けていた。モロッコはこの地域で唯一西側の支援を受けており、西サハラへのアルジェリアの浸透は脅威であった。
1975年11月14日にはスペインとモロッコ、モーリタニアの間でマドリード協定が調印され、この地域のスペイン支配は終了した。ポリサリオはその後も攻勢を強め、各地でゲリラ戦を展開。
このゲリラ戦に屈服する形で、1979年には西サハラ南部を領有するモーリタニアが停戦協定を締結し西サハラ領有権を放棄。対するモロッコ政府はこの機会に西サハラ地域全体をモロッコに併合する計画を立てた。西サハラには豊富な海洋資源と鉱物資源が眠っており、これらがモロッコの領土拡大にさらなる拍車をかけていた。
1980年代に入るとモロッコは西サハラのポリサリオ戦線との領土紛争地域や沿岸部の都市を保護する名目で砂の壁と呼ばれる砂と鉄条網で形成した長大な防御線を築きあげていた。この壁はイスラエルとパレスチナの間に作られた分離壁をモデルに作られ、イスラエル軍の協力によって構築された。総延長は2000kmにも及び、西サハラの南部国境を経て西サハラ領域内を南北に縦断、モロッコ・、アルジェリアの国境に達する。壁の西側はモロッコによる占領地でモロッコ軍が監視、東側はポリサリオ戦線による「解放区」で戦線側が監視している。この防御線の構築により戦線は停滞し、膠着した。
西サハラ問題はこの後アフリカ統一機構(OAU)が独立問題を決める住民投票実施を提案。モロッコはこの提案を受け入れたものの1984年のOAU会議に西サハラのサハラ・アラブ民主共和国代表団が参加したことでOAUを脱退。紛争は継続された。
1988年にアルジェリアとモロッコが国交を回復するとモロッコは遂に停戦を決意し、国連の住民投票案を受諾。
1991年には国連の解決計画による停戦に合意し、武力衝突は一応の収束を見た。
1992年には住民投票を行うための人口統計調査が実施されたが幾度も延期や中止に追い込まれ1997年9月には住民投票実施規則にモロッコ、サハラが同意し和平に向けた動きが再開された。
現在西サハラは実質的にモロッコ政府の監視下に置かれモロッコへの併合可決を目論むモロッコ政府がインフラ整備を推進しそれに反対する暴動なども発生している。