グルジア問題
カフカス地方周辺地図。水色のエリアはイスラム教国家
グルジア・南オセチア問題
グルジア共和国はソ連に所属していた自治国家で1991年に独立。公用語はグルジア語でヨーロッパと中東の境にある戦略の要衝「カフカス」地方、カフカス山脈の南部に位置する。この地域に多い多民族国家でグルジア人、アルメニア人、ロシア人、オセット人が住んでいる。中でもグルジア全体の3%にあたる少数派のオセット人はグルジア北部に南オセチア自治州を形成している。この小国をロシア連邦所属の北オセチア自治共和国(ロシア所属)に編入しようとする南オセチア(グルジア所属)の動きがあり紛争に発展した。
オセット人は本来カフカス山脈の北側、現在の北オセチア周辺に居住していたイラン系の民族であったが13世紀のモンゴル帝国の侵攻によって住居を追われ現在のカフカス南部に移動した。オセット語という独自の言語を持つがグルジア政府には公用語の教育を受けさせられるなど民族的な軋轢が生じていた。1990年代に入ると南オセチアの北オセチア編入を計る北オセチア自治共和国政府が南オセチアのオセット人の主権拡大をせまり1990年12月には主権宣言を採択し独自選挙を始めるなどした。これに対してグルジアは南オセチアの自治権を剥奪しグルジアに完全従属させる決議を採択した。1991年1月にはゴルバチョフ大統領が双方の宣言を無効とする決定を下し大統領令を発令。しかしこれがロシアに対する反発を生む結果となり南オセチアを中心に反政府抗争が激化。市民などに多数の犠牲者を出す。
1991年4月、ソ連崩壊の混乱の中グルジアも他の諸国同様独立を宣言すると南オセチア自治州の州都を中心にグルジア軍とオセチアの武力衝突が激化。この事態に対して和平の兆しが見え出したのは92年6月のロシア・グルジア首脳会談での事でロシアのエリッィン大統領、グルジアのシュワルナゼ最高評議会議長(元ソビエト外相)によって南北オセチア指導者との間に和平が調印された。しかしグルジア政府軍は南オセチアに対する攻撃を止めず92年の4月にはロシア、グルジア、南オセチア軍で構成される平和維持部隊が南オセチアに展開した。11月にはCSCE(全ヨーロッパ安保協力会議)の監視団がグルジアの首都トビリシの派遣され停戦が執行されている。95年にはシュワルナゼ氏が大統領選挙に当選し領土問題の対話を始めようとしているが独立を強く望む南オセチアとの交渉は難航している。
グルジア・アブハジア問題
グルジア西部にあるアブハジア自治共和国はイスラム教徒であるアブバジア人がグルジア民族からの支配を嫌い1992年7月に独立を宣言。以降紛争が始まっていく。グルジア共和国は国土の保全を理由に独立を承認せず南オセチア同様悩みの種となっている。戦闘が激化する中で何度も停戦交渉が行われたものの合意しては協定を破棄し戦闘を続けるという状況が続いた。ロシア軍の仲介に対してシュワルナゼ大統領はグルジアに対する圧力であると批判。グルジアはロシアとの交渉を打ち切り1993年にはグルジア軍がアブハジアのロシア施設を攻撃した事で今度はロシア軍との戦闘が開始される。ロシア軍はグルジア軍基地に対して報復の空爆攻撃に出るなどし状況は泥沼化。93年7月には3者間での和平交渉が行われ調停がなされるもアブバジア軍がグルジア軍部隊を攻撃するなどそアブハジアの州都スフミでの市街戦に発展した。12月にはグルジア軍がアブハジアの首都を放棄しモスクワでの和平会談でアブハジアに一定の自治を認めることで合意した。1995年には双方で単一国家を作る事で話し合いが合意。1997年には首都トビリシで首脳会談が行われたが1998年頃から再び軍事衝突が発生し紛争の再発が懸念されている。