スペイン
バスク独立問題/カタルニア独立問題
バスク独立問題
スペイン北部からフランスにまたがる土地に位置するバスク地方は固有の言語、文化を持つ民族であるバスク人が生活をしている。彼らは19世紀の産業革命以降バスク地方で産出される鉄鉱石とイギリスとの貿易で早い時期から重工業地帯として発達した。しかしそれらの発達は雇用の増大を産みバスク地方にバスク人以外の民族が大量に流入する結果になった。その結果民族の尊厳や伝統文化の破壊を恐れたバスク人達が民族運動を開始することになる。

バスク地方は1936年のスペイン内乱を切欠に自治政府が誕生したがその後ナチスドイツの支持するフランコ将軍率いる反乱軍に敗れバスク語の使用は禁止され自治獲得運動は弾圧されていく。この弾圧の中で先鋭化したバスク人達はETA(バスク祖国と自由)を結成し1973年には当時のバスク首相カレロ ブランコを暗殺しその名を世界に轟かせた。ETAは1959年穏健派から離脱した先鋭集団で非合法のテロ組織として成長した。ETAは他のテロリスト集団とは組織形態が違う非常に希な運営法を使用している。それは税金の徴収で、彼らは革命税という税金を市民から徴収することでその活動を維持しており、バスクにある企業や商店から活動資金を集めている。ETAは革命税の徴収に従わない企業に対しては爆破テロや社員誘拐で対抗し草の根運動を広げていった。

1979年には遂にバスク地方の自治は認められたがETAはその後も武力によるバスクの独立を目指し活動を続け、スペイン内務省の反テロリスト部隊GALと泥沼の戦闘を繰り広げた。ETA活動員の多くは逮捕されたその場での軍事即決裁判で処刑されることが殆どであった。
バスク人は当初ETAの活動には協力的であったが、1997年に発生した国民党議員ブランコ氏を誘拐、スペイン政府に対してETA活動家の服役囚をバスクの刑務所に移すよう要求した。
これに対してスペイン政府は要求を拒否。その結果ETAはブランコ氏をサンセバスチャン広場で処刑した。この行動の結果これまで好意的であったバスク人を含めたスペイン全土で反ETAのデモが広がり、孤立化したETAは1998年9月に無期限停戦を宣言、スペイン政府とETA、そして穏健派のバスク国民党が和平交渉の席に着くこととなった。

■追記(2003/11/28)
この交渉は平和解決への一歩へと思われたがETAはスペイン政府が交渉を政治利用していることに不満を覚え1999年8月には対話は一方的に中止された。また同年12月にはテロ活動を再開し以降政治家、軍人、ジャーナリストなどを標的にした60件以上の暗殺テロを繰り返し40人以上を殺害している。
■バスク人
ヨーロッパ言語、インド言語民族がヨーロッパ大陸に進出してくる前に既にこの地方に住んでいた民族でバスク語という独自の言語を使用する。スペインバスク地方に4県、フランス領土に3県を持つ。軍隊などで使用されているベレー帽の故郷としても有名でクロマニョン人の子孫とも言われている。

■ETA(バスク祖国と自由)
バスク国民党から発展した武装過激派組織で1959年穏健派からの独立以来、軍、警察、政府関係者など1000人に上る暗殺を実行している。600人以上の活動員が収監されており彼らの処遇も政府との対話を阻害させている。

■PNV(バスク国民党)
バスク地方議会で18年以上に渡り第一党を維持している穏健派。フランコ政権下ではファシスト主義が台頭しバスク語の禁止など厳しい弾圧を受けた。

■スペイン内乱
1936〜39年。右翼による軍事クーデーターによりフランコ将軍の軍事政権が誕生するまでの一連の内乱。イタリア、ナチスドイツの支援を受けたフランコ将軍が総統に就任。1975年まで独裁体制が維持さるが将軍の死後王政が復活する。
カタルニア独立問題
1992年のバルセロナオリンピック以降その名を知られるようになったスペインのカタロニア地方はフランス国境に近い事からこの地域で最も強くローマ文化の影響を受けている。産業革命以降には経済的に貧しいアンダルシア地方から大量の移民がやってくるようになり独自のカタルニア語を使用する地元民はバスク地方同様の文化的危機感を覚えるようになった。
オリンピックを利用した独立アピールなどもあったが現在では地方全体の不景気などにより独立運動は消沈している。しかし近年大量のアラブ移民を抱える事から原理主義思想が台頭してきておりアルジェリアのテロ組織「GIA(武装イスラム集団)がスペインに活動拠点を移動したと言われている。更に分派の伝道と聖戦のためのサラフィスト集団はアルカイーダとも協力関係にあり2001年9月11日の同時多発テロに関連して逮捕者を出している。